ダンスから、あるいは踊るカラダから得られる体験というのが、確かにあります。
そこをとても魅力的な言葉で話してくれた人がいました。踊るまえと踊ったあとでは、明らかに違う何か。踊りから受け取った何か。
きのう火曜夜のフリークラスで、即興ダンスの稽古をした、そのなかでの対話でした。
「とける」という一言も含まれていだのだけれど、さりげなくその一言を発したときに垣間見えたさりげない動きや表情が、単にトケルという言葉が独特のものに膨らませ、他の人には簡単に共有できない何かが、この人のトケルには、あるのだろうなぁと想像しました。
身体が次第に柔軟性やフレキシブルな流動を獲得してゆく。ダンスには、そんな側面が確かにありますが、それはフィジカルな変化に心理や考え方も含めた、一人一人が特別に得る変化体験だと思います。ほぐれ、やわらぎ、とけ、ゆるみ、しなやかになり、さざめき、、、。さまざまな言葉が、踊る人からも、観る人からも、ダンスから出ますが、それらの言葉には言葉以上の体験が隠されているに違いありません。
ダンスのあとに、あるいは踊るカラダを追うように、発される言葉というのが、確かにあります。
肉体に、感情に、思考回路に、繰り返し繰り返し揺さぶりをかけること。変化そのものになるまで、、、。
そのようなダンスの稽古が出来るといいなと思います。
自己の固さを壊す力が、ダンスにはあるのだろうし、また、壊す力こそがダンスを生み出す力かもしれないと思うなか、昨夜は沢山おどりました。
日がかわり、きょうはつい先程まで「オイリュトミー」という踊りのクラス練習をしていました。これはモダンダンスと前後する時代にヨーロッパで生まれたものですが、モダンダンスが非常に主体的なのに対して、オイリュトミーは受容体あるいは客体になるということを大事にして、自分を出すというより、他者に自分を寄り添わせてゆこうとします。
あるときは音楽に、あるときは言葉に、全身で溶け込んゆこうとする稽古。与えられた型や運動を何度も繰り返し行い、その型や運動に込められた精神を読み解いてゆく稽古。音や言葉を正確に反映して動く稽古。などにかなりの重点が置かれているのが面白く、繰り返しやっていると自分の感覚や感情の開かれかたが、だんだんと掴めてきます。
他者が発する「音」を「リズム」を「言葉」を、それらのあらゆる「響き」を、よく聴いて、全身運動に反映させる。次第に細やかに、正確に、繊細に、ピッタリと合うまで。そしてそして空間全体が振動するように動きをダイナミックに拡張し、響きに身体が溶け込んでゆくように、練習をしてゆきます。
何度も聴く、何度も動く、最初はゆっくり、次第に速く、大きく、繰り返し繰り返し繰り返し、、、。
この作業には、他にはない体験があります。身体の殻を破こうとするとき、やはり知らないものや、異なるものが、またそれらに近づこうとする試みそのものが、刺激をくれるのでしょうか。
主体的に何かを表現する前に、いったん受容の体験をふんだんに重ねてみる。そんな特徴がオイリュトミーの練習にはあります。
外にひろがるものに、自らをひろげる。
音楽の向こうには奏でる人の身体が、言葉の向こうには発話する人の身体が、ある。そのような、他者の身体に、この身を揺らし溶かしこんでゆく。
言葉に耳を傾けるときは、その言葉を発する人に近づこうとしている時なのだろうけれど、アタマで意味合いや感情ばかり追っても、言葉の全体に対してカラダ全体を開こうとしないと何も聞こえてこないのでは。という姿勢がオイリュトミーにはある、ということでしょうか。
自分の踊りをさがしながら、しかしそればかりでは、との思いもあるのだろうか、面白く興味深くて、長く稽古しています。
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