スタンリー・キューブリック監督の映画『アイズ ワイド シャット』(”Eyes Wide Shut”1999)を見返しました。ときどき見たくなります。じっと。何度も。

世紀末ウィーンの作家シュニッツラーの映画化ですが、天才監督の遺作として皆様ご承知の作。

一度また一度と、観るたびに見えてくるものが増殖するようです。

混乱と奇妙さと、ゆるやかな崩壊が、この遺作には魅力的に充満しています。

底知れない漆黒が目の前に裂けたような、永久に朝が来ないような街角の雰囲気。香水、酒、電光、ドレス、裸身、疑い、微笑。それらが繰り返す、溜息のようなリズム。すれ違うこと、かすめてゆくこと、すれ違いが成す層、、、。

ドラマの場ニューヨーク、実際の撮影地のロンドン、そこにシュニッツラーの原作《Traumnovelle》(邦題「夢小説」岩波刊)に描かれた世紀末ウィーンの空気感が反映されて、ありそうで無い街角の特別な空気感に誘われます。

現実の世界ほど未知や不可思議に満ちたものはないのでは、という感覚が溢れてきます。

現代の都市には、想像を超える複雑さや混乱や未知の領域が、理解しがたい渦を巻いているように思うことがあります。

それは都市に彷徨し、すれ違っては離散する実在の肉体がまとう神秘性や謎、人と人のあいだの好奇心と禁断が引き起こす妄想の渦かもしれません。

そのような、実在の淵というか、存在と存在の裂け目なるものの果てしなさを、キューブリックはかつて描いた宇宙空間の果てしなさ以上に鮮やかに予見し描いているように思えてしまう。
また、この映画は肉体がもつ不可思議な官能とイリュージョンを巡る旅のようでもあり、そこに僕はダンスのような肉体の遠近感を感じます。

マヤ・デレンやレニ・リーフェンシュタールは映画監督でノイエタンツのダンサーでしたが、もし、このキューブリックがダンスの振付など手がけていたらどんなことになっただろうか、と、この映画を観るたびに、いや、じっと眺めるたびに、僕は、あらぬ妄想をいだいてしまいます。

ショスタコーヴィチのワルツに、ある夫婦生活の欠片がぷつりと差し込まれる、まばたきのような冒頭は、さながらショーの楽屋を垣間見たような錯覚。

やがて、冷め切ったモンタージュの生み出す淡々たる時間軸眼は、却って奇妙な陶酔感。眼を開くたびに見える現実と眼を閉じるたびに垣間見える妄想。全て何か深層心理のカケラのような画像が次第に混沌を成し、言葉が交わされるたびに危うくなってゆく虚実の境目。

坂道を転がり落ちてゆくような、あるいは、迷宮に落下してゆくような感覚があります。

落下しながら終わりのない旋回ダンスを踊っているような感覚でもあります。

眼を閉じてなお見える光景
眼を閉じて初めて見える光景
眼を閉じれば閉じるほど鮮明に見えてくる光景
眼の奥に瞬いている、もうひとつの眼

この世界に、あるいは、この肉体に、現れては消える無数の眼の存在を感じさせられ、
気が遠くなってゆくようなマジックが、この映画の隅々には仕掛けられているようです。一種の魔術なのでしょうか。