思いから現れる動きもありますが、動きから現れる思い、もあるのではないか。
などというのはおかしいでしょうか。

良きにつけ悪しきにつけ、内面の状態が姿勢や身体の動きに反映していることは日常よく見られますが、ダンスでは逆のことも起こり得るのではないかと思うことがあります。

いや、ダンスに至る過程での、たとえば稽古と呼んでいる行為だったり、舞台での刻一刻の状況のなかで、身体の動きが内面変化を促してゆくことがあるのです。
そして、心理と行為、とかイメージと運動、とかの境目が無くなることもあります。
何か思ったときには既に動き終わっている、動いたときには心理も次に変化している、と言えばいいのでしょうか。

逆に、そのような体験が起きない時は、例えスムーズな動きを得たとしても、ダンスというには何かが足りない感覚を覚えてしまいます。この状態は自分が踊っていなくて観客席からダンサーを見つめていても、誰かの稽古に立ち上っていても、そのような現象が起きているか否かが感じ取れる気がします。

特徴は僕の感じでは、速度感と運動の密度の濃さと集中力、かなと思いますが、これらが一定の枠を超えないと、僕の場合は意識も駄目で、ダンスも駄目になる。思い出したくもないほど最悪です。

ダンス以外で似たような事があるとすれば、例えば書道なんかで良い線が見えるまで書いて書いて書き続ける、あれなど似ているかもしれません。良い線とは力の現れそのものだから。

毎日なにかしら動いていないと駄目になる気がするのは、そのような速度や密度を捉える運動感覚が失われるからかもしれません。

逆にこれらがより精度を高めるところに追い込むことが出来たときは、脳裏から言語が欠落してしまうような状況になることもあります。ある種のスイッチみたいなものが働いて言語の働く余地を削除してしまうのかもしれない。言語を介在させる必要がなくなるのだから、これはラッキーです。

身体の底で、常に更新されているであろう何か。というものが、私たちの身体には封印されていて、運動がそれを目覚めさせるのでしょうか。



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