舞台やクラス活動のほかに、縁あってダンスの専門学校でも教えるようになって、この人たちが踊る公演を年何回か打つのですが、いまは卒公を手がけていて本番近く。
18から20歳のべ120人位も踊るその大部分は自分たちで創作した作品。バレエ、モダン、ジャズ、ストリート、コテンポラリー、なる呼称ひと通りやる趣向だが、踊りのことだから、ジャンルなんて本当は要らない、とか、いやそんなことはない、とか、さんざんやり合いながら結局は「踊りとしか呼びようがないもの」を探して、、、。
常識なんか壊してしまえ。では壊す力があるか。と、さて、どこまで。その足掻きは、僕ら現役とやはり重なります。

ながくバレエ教室などに通っていた子も、高校の部活で目覚めた子も、一つに、と、言うが易し、やるは難し。バンバン動ける人がヘタクソでも必死で齧りついてくる人に圧倒されたりする、かと思えば、頑張っても頑張ってもと唇を噛みながら踊る人もいる。という、色々なチカラが入り乱れる有様これは結構パワフルです。

ダンスはアタマで誤魔化せないから個の差異がハッキリ出る、それが一つの舞台に結晶するにはまず個々のベストを形にしないと助け合うことさえ出来ない、つまりは一人一人が自分に向き合うしかなくなります。
私とは、カラダとは、、、。となったとき、やっと言葉も通じ始める。葛藤や悩みをも滲み出しながら、ギリギリのところでカラダに、自己に他者に、向き合っている姿は一緒にいて感情がすこぶる揺さぶられます。

面白くて10年以上続けていますが、最近は、若い人たちは色々と言われるが本気を出せば凄いという実感があります。また、シビアな未来感と自己との葛藤を感じます。そんな感じが露わに見受けられるようになったのは、震災をはさんでからが著しく、年々鮮烈に。当時中学生だった彼ら一人一人に、何か大きな転機がやはり、あったのだと思います。

実技のあいま、さまざま過去のダンス映像を見せているが、以前はブロードウェイミュージカルや初期のヒップホップなんかが人気だったのに、最近は少し古いマリー・ヴィグマンやダンカンやクルト・ヨースなど歴史の激動期の舞踊やダダイストのパフォーマンスなどに共感を持つ人が増えています。時代なるものが孕む空気感が似ているのでしょうか。

わからない何かをこそ表現したい、自分の言葉が聞こえないしかし訴えかけたい、という声もよく聞く。火のようなものが、一見おとなしく優しげな身体の内部で加速している感じがします。
彼らは「新しい人々」なのでは。たぶん、この国は変わるのでは。
なんて少し思ってしまいます。

また彼らは奨学金で学校に通うのが多数になった世代。バイトで稼いだ金でスタジオを借り徹夜で稽古して授業に備える連中もフツウに結構います。格差や将来不安の切実さが強い。そのなかで、なぜダンスか、どう生きたいのか、と考えている。若い子たちが穏やかに明るく見えるのは表層。現実と静かに闘っている姿を目の当たりにしている感じがあります。
僕らが経験し得なかった、かつてなく複雑な何かを、付き合いながら感じます。そして、彼ら彼女らの踊る姿から、ダンスという「理性を超えた衝動」を、あらためて実感する瞬間がたびたびあります。