人が愛した着物を見るというのは、人が愛した暮らしを見るということにも通じているかもしれません。
年末からやっていた白洲正子さんの着物展が来週月曜、16日迄です。銀座、松屋の8階。知人の評判もいいです。
銀座は、能の稽古や骨董に長年情熱的に取り組まれた白洲正子さんが「こうげい」という染織工芸のお店をされていたのだから、ゆかりの地での展示とも言えなくはない。
和装に限らず、お出かけ着に限らず、毎日の仕事着でも何でも、着るものというのは、やはり表現だと思う。そして、心持ちをつくるし、人や運を近づけも遠ざけもするにちがいない。
踊りでも、舞台が近づき衣装を合わせた途端にもう迷いも間違いもあってはならぬという抜き差しならぬ気合いが入りますし、練習のときだって人前で踊るのだから寝巻きの出来損ないみたいなものはいくら動きやすくても、着たくないもの。実際、稽古着ひとつ似合うかしらどうかしらと選ぶだけで、気持ちの張りが変わるし動きにも色艶が宿ったり、ずいぶんするようです。教えの場でも目にします。お仕事でも家庭でも、きっと同じでは。着るものは気持ちの区切りを鮮やかにするものなのでしょう。
何を着れば自然で、似合うか似合わぬかを良く知っている人は、やはり自分のことを良く知っているのでしょう。言い方を変えれば、自分の文化をきちんと知ろうとする人だと思います。
だから、おしゃれはちっとも見栄ではないし、逆に見栄で高価なものや華やかを装っても別におしゃれとは感じない。
ただ、あまりに無頓着が癖になると、だんだんと自分自身にも愛着や関心が薄くなって趣味も交際もどうでもよいという、果ては毎日が楽しくない虚しいとなってしまうのが人ではないかしら、とも思うのです。
自分に無関心になると、着るものにも暮らし周りにも愛着もなくなりますが、それは他人にも世の中にも無関心になる始まりかもしれない、とも思います。
僕の思うこと勝手に書いているが、卓越した審美眼で知られる白洲正子さんなら、、、というのがこの展覧会の見どころと思います。
普段に着るものと、暮らし周りの小物の色々から、白洲正子さんならではの美意識と生活への態度が垣間見られます。
白洲正子さんが銀座「こうげい」の活動を通じて世に広めた田島隆夫さんや古澤万千子さんら名人の作品もしっかり見れます。
展覧会HP
年末からやっていた白洲正子さんの着物展が来週月曜、16日迄です。銀座、松屋の8階。知人の評判もいいです。
銀座は、能の稽古や骨董に長年情熱的に取り組まれた白洲正子さんが「こうげい」という染織工芸のお店をされていたのだから、ゆかりの地での展示とも言えなくはない。
和装に限らず、お出かけ着に限らず、毎日の仕事着でも何でも、着るものというのは、やはり表現だと思う。そして、心持ちをつくるし、人や運を近づけも遠ざけもするにちがいない。
踊りでも、舞台が近づき衣装を合わせた途端にもう迷いも間違いもあってはならぬという抜き差しならぬ気合いが入りますし、練習のときだって人前で踊るのだから寝巻きの出来損ないみたいなものはいくら動きやすくても、着たくないもの。実際、稽古着ひとつ似合うかしらどうかしらと選ぶだけで、気持ちの張りが変わるし動きにも色艶が宿ったり、ずいぶんするようです。教えの場でも目にします。お仕事でも家庭でも、きっと同じでは。着るものは気持ちの区切りを鮮やかにするものなのでしょう。
何を着れば自然で、似合うか似合わぬかを良く知っている人は、やはり自分のことを良く知っているのでしょう。言い方を変えれば、自分の文化をきちんと知ろうとする人だと思います。
だから、おしゃれはちっとも見栄ではないし、逆に見栄で高価なものや華やかを装っても別におしゃれとは感じない。
ただ、あまりに無頓着が癖になると、だんだんと自分自身にも愛着や関心が薄くなって趣味も交際もどうでもよいという、果ては毎日が楽しくない虚しいとなってしまうのが人ではないかしら、とも思うのです。
自分に無関心になると、着るものにも暮らし周りにも愛着もなくなりますが、それは他人にも世の中にも無関心になる始まりかもしれない、とも思います。
僕の思うこと勝手に書いているが、卓越した審美眼で知られる白洲正子さんなら、、、というのがこの展覧会の見どころと思います。
普段に着るものと、暮らし周りの小物の色々から、白洲正子さんならではの美意識と生活への態度が垣間見られます。
白洲正子さんが銀座「こうげい」の活動を通じて世に広めた田島隆夫さんや古澤万千子さんら名人の作品もしっかり見れます。
展覧会HP