風に運ばれるように色々な沢山の言葉に出会うが、胸を掴まれる言葉は
大抵なにかしらの体験から出たものが多いように思う。
そして火のように燃えている。

マーサ・グラハムの書いた「血の記憶」という本があるが、まさに熱の塊が言葉になって燃えているようだ。彼女の言葉は踊りから燃え出て、また踊りに燃え移っていたのだろうか、などと、ただならぬ感情の波が騒ぐ。

カラダから出た言葉は、やはり熱い。

カラダを使って行動し、カラダで捕まえた熱がきっちり無いと、言葉というのは実感も実体も無い。そういう言葉は、嘘っぱちの自分を作り上げてしまう気がして、怖い。

自分自身の生活から掴めた言葉で考えないと、
本当に感じていることも、本当に思っていることも、結局のところ何を分かっていて何を分かっていないのかも、ハッキリしない。

行為し、体験し、感動して初めて出てくる言葉は少ししかないが、少ししかない血の通った言葉で話したり考えたりして初めて、自分という火の輪郭が見えてくる感じがする。

そして、これはもう言葉で言っても言い尽くせないんだという何かも、カラダの奥から燃え始めるような気がしてならない。

言葉を詰めていかないと、本当に言葉にならないものも、やはり、わからない。

動き熱し、熱を言葉し、絶句し、吃音し、やっとそこから何かが変わる気もする。

言葉を燃やし尽くしたところに、踊りの火種は宿るのではないか、とも思う。

そうしているだろうか、と自問する。