ダンスはとても古くから受け継いできたものだから、昔の人が遺した言葉や色々に触れることが次第に多くなる。先史時代の遺跡やラスコーの洞窟画など、たびたび見詰めてしまう。音楽も言葉めない空洞のなかでオドルあの牛や人ノ影が、たまに羨ましくなる。

稽古という言葉は、古えを察する、ことに由来するときく。僕らの古えとは、いかなる処なのだろう。

僕はここが東京で日本で地球でとか知っているが、知っていることで損なわれたものもあると思う。
いったいここは、このからだは、どこから来て、どこへ。
と、昔の人は何度も何度も繰り返し問い続けて
踊りや絵や音楽を行為してきたのではないか、と、
時に思う。

未知ということから、好奇心や想像も広がるわけで、想像が広がると心の中が広くなってゆくのだろう。

未知に囲まれていた昔の人は星や月と同様に、心の中をも見ていたのではと思う。そこに色々なものが居て、沢山の分からない世界を作っていたのに違いない。
心のなかのように、夜にも暗闇があり、暗闇の向こうには未知の世界が広がっていて、心と世界の区別は今ほど沢山ではなかったのではないか、と思う。光も未知の世界から訪れて人や石を照らしていたから光は神様だった。暗闇も、虚空も、、、。

知ることは喪うことでもあるならば、喪ったぶん何かを、というのが芸の宿題か。

さて、あした、、、。

と思いながらイマ夜を遊んでいるが、実は明日が来ることは、それ自体、奇跡的な幸運かもしれないし、明日というのは未知の場所なのではということを僕は震災以来どこかで感覚している。だからイマのイマを味わいたくて、遊び・稽古し・つまり探す。
そんな幸運の繋がりが日々というものなれば、一期一会という、昔の人の大切にした幸福も、あながちお題目ではない。
踊る、というその時というのは、イマを迎えアナタを迎えている奇跡が身を揺するのでは、と思う。

心オドルから身も踊るのだが、心踊りの根っこには、いま在る奇跡つまり「在リ難イ」の心因と、明日知れず、つまり「いと(命ノ途)惜シム」の幽けさが、身に迫るその感触ではないかと、妄想している。

僕は1週間後に舞台があり、それは新作であり、新しい踊りである、と、イマ走っているが、それは毎朝毎夜に対してあと7回、一期一会してゆくことでもある。
と思えば、作物がやっと芽吹いてきた、なんて言ってられない。まだまだ、まだまだの七夜七朝を走り尽くして、お会いできればと、イマを明日を祈る感じで、、、
アリマス。