(前項続き)
『死の教室』で体感した胸騒ぎがやっと治ったのは何年も経ってタデウシュ・カントールが亡くなる少し前に上演された舞台『くたばれ!芸術家』を観ていたときだった。
同じスタイルに貫かれていても、前に観た『死の教室』がエネルギーと混沌と発生が凄まじかったのに対して『くたばれ!芸術家』は打って変わって洗練された技術や細やかなシノプシスが配慮された感じが強く、劇場のオーソドックスとも言えるスマートな舞台だった。
ガランとした舞台には大きな扉があって、その向こうに闇があった。
扉は何度も開閉し、開閉するたび闇から人々がドッとなだれ込む。
そして展開される騒動は矢張り彼らならではの無秩序と死のイメージに満たされている。
だが、『死の教室』が有機的で記憶と予感が蠢めく夢の迷宮のようで何が起こるのか判らない事件的でさえあったのに対して、この舞台の一瞬一瞬は、古い記録フィルムが再生されるように一定の時がカチカチと流れてフッと消えるような感じだった。共有されているものが以前とは何か違う。より現実味と個人記憶の感じが強い。
彼らは生きているうちに何かを僕らに伝えたいのではないか。いま僕は、語り伝えの場所に来ているに違いない。そう直感した。
この舞台は「墓地の貯蔵庫、あるいは記憶の宿屋」だというカントールの言葉がパンフレットに先述されてあった。
軍隊、娼婦、処刑台、サーカス、家族、友人、恋人、幾つもの十字架。それらを飲み込んでゆく、灰色と黒のトーン。
言葉は沢山あったのに、それはイマ生成される言葉というより、思い出される言葉のように発話されていた。身振りは湧き上がるというより身体記憶の輪郭を探索するように危うかった。
話されているのに無言のような沈黙を感じ、踊られているのに冷んやりした停止のテイストを感じた。そして沢山の人が出ているのに、人と人が別離して存在する孤愁が、隅々まで漂っていた。だから舞台はとても広く、渋谷に居るのに世界の果てに居るみたいだった。
以前観た『死の教室』の現在感、いままさに何かが起ころうとしている感じ、に対して、ここではより確かな過去の再燃がまるで検証するように試され修正されてゆく。記憶の断片一つ一つの確かさに表現の矢が向けられているようだった。由あって裁判の傍聴に行ったことがあったが、その時の雰囲気に少し似た空気感が漂っていた。出演者たちも、証言を再現する係官のような客体感があり、カントール自身は矢張り舞台に居たが、前よりも淡々と落ち着いていて、証言者や旅人の語り部のような存在感だった。それらが却ってリアリティを誘って、僕ら観客も見知らぬ事実を垣間見ているようだった。
開いては閉じる扉。そこから人々が現れ消える、そのたびに不穏さは重みを加え、扉の向こうにある闇よりも、より深い闇が舞台を満たしてゆく。光があるのに真っ暗になってゆく。
扉の前のガランとした舞台はいつの間にか、廃墟、工場、教会、病院、子供部屋、ときにガス室にさえ見え、またいつのまにか、がらんどうの闇に戻っている。
、、、。ある瞬間、黒い大きな馬の骸骨とともに、あどけない少年が通り過ぎてゆくシーンがあった。その少年の透き通った眼の輝きが、あまりにも強烈で、その一瞬スッと闇に亀裂が入った、ように、感じた。
やがて舞台は死者たちと少年の交流になって、次第次第に滑稽さも加わり、なんだか力強くなってゆく。死を乗り越える何かが、死のオペラを解体し始める。
この舞台では死のイメージが、抵抗歌のような、つまり何者にも殺されてなるものかという逞しいエネルギーに変化してゆくようだった。
(あのようは歌を、僕らは子どもたちに歌えるだろうか、、、)
これはカントール自身の生きた日々の記憶から現在へのバトンなのかと想像した。死の支配から生き延びた人々の末裔、それが僕らなのだと、カントールは僕らに語りかけているのかと想像した。
体験したことを伝える。
我が身に起きたことを他者に通じる物語に置き換える。
そんな、表現者の基本の基本が、バンとあった。
神話とか寓話の仕方を、ある個人が試みている、その現場に居るようだった。
「死の教室」で抱いた奇妙な胸騒ぎの奥にあった何か謎のようなものが、一気に解読されたように感じた。そして何か新しい胸騒ぎに変化した。
それは、人生のなかで新しい何かを予感するときの胸騒ぎに似ていて、まだ言葉にこそならないが、今も続いたままである、、、。
『死の教室』で体感した胸騒ぎがやっと治ったのは何年も経ってタデウシュ・カントールが亡くなる少し前に上演された舞台『くたばれ!芸術家』を観ていたときだった。
同じスタイルに貫かれていても、前に観た『死の教室』がエネルギーと混沌と発生が凄まじかったのに対して『くたばれ!芸術家』は打って変わって洗練された技術や細やかなシノプシスが配慮された感じが強く、劇場のオーソドックスとも言えるスマートな舞台だった。
ガランとした舞台には大きな扉があって、その向こうに闇があった。
扉は何度も開閉し、開閉するたび闇から人々がドッとなだれ込む。
そして展開される騒動は矢張り彼らならではの無秩序と死のイメージに満たされている。
だが、『死の教室』が有機的で記憶と予感が蠢めく夢の迷宮のようで何が起こるのか判らない事件的でさえあったのに対して、この舞台の一瞬一瞬は、古い記録フィルムが再生されるように一定の時がカチカチと流れてフッと消えるような感じだった。共有されているものが以前とは何か違う。より現実味と個人記憶の感じが強い。
彼らは生きているうちに何かを僕らに伝えたいのではないか。いま僕は、語り伝えの場所に来ているに違いない。そう直感した。
この舞台は「墓地の貯蔵庫、あるいは記憶の宿屋」だというカントールの言葉がパンフレットに先述されてあった。
軍隊、娼婦、処刑台、サーカス、家族、友人、恋人、幾つもの十字架。それらを飲み込んでゆく、灰色と黒のトーン。
言葉は沢山あったのに、それはイマ生成される言葉というより、思い出される言葉のように発話されていた。身振りは湧き上がるというより身体記憶の輪郭を探索するように危うかった。
話されているのに無言のような沈黙を感じ、踊られているのに冷んやりした停止のテイストを感じた。そして沢山の人が出ているのに、人と人が別離して存在する孤愁が、隅々まで漂っていた。だから舞台はとても広く、渋谷に居るのに世界の果てに居るみたいだった。
以前観た『死の教室』の現在感、いままさに何かが起ころうとしている感じ、に対して、ここではより確かな過去の再燃がまるで検証するように試され修正されてゆく。記憶の断片一つ一つの確かさに表現の矢が向けられているようだった。由あって裁判の傍聴に行ったことがあったが、その時の雰囲気に少し似た空気感が漂っていた。出演者たちも、証言を再現する係官のような客体感があり、カントール自身は矢張り舞台に居たが、前よりも淡々と落ち着いていて、証言者や旅人の語り部のような存在感だった。それらが却ってリアリティを誘って、僕ら観客も見知らぬ事実を垣間見ているようだった。
開いては閉じる扉。そこから人々が現れ消える、そのたびに不穏さは重みを加え、扉の向こうにある闇よりも、より深い闇が舞台を満たしてゆく。光があるのに真っ暗になってゆく。
扉の前のガランとした舞台はいつの間にか、廃墟、工場、教会、病院、子供部屋、ときにガス室にさえ見え、またいつのまにか、がらんどうの闇に戻っている。
、、、。ある瞬間、黒い大きな馬の骸骨とともに、あどけない少年が通り過ぎてゆくシーンがあった。その少年の透き通った眼の輝きが、あまりにも強烈で、その一瞬スッと闇に亀裂が入った、ように、感じた。
やがて舞台は死者たちと少年の交流になって、次第次第に滑稽さも加わり、なんだか力強くなってゆく。死を乗り越える何かが、死のオペラを解体し始める。
この舞台では死のイメージが、抵抗歌のような、つまり何者にも殺されてなるものかという逞しいエネルギーに変化してゆくようだった。
(あのようは歌を、僕らは子どもたちに歌えるだろうか、、、)
これはカントール自身の生きた日々の記憶から現在へのバトンなのかと想像した。死の支配から生き延びた人々の末裔、それが僕らなのだと、カントールは僕らに語りかけているのかと想像した。
体験したことを伝える。
我が身に起きたことを他者に通じる物語に置き換える。
そんな、表現者の基本の基本が、バンとあった。
神話とか寓話の仕方を、ある個人が試みている、その現場に居るようだった。
「死の教室」で抱いた奇妙な胸騒ぎの奥にあった何か謎のようなものが、一気に解読されたように感じた。そして何か新しい胸騒ぎに変化した。
それは、人生のなかで新しい何かを予感するときの胸騒ぎに似ていて、まだ言葉にこそならないが、今も続いたままである、、、。