8月9日のリハーサルは偶然の導きだが、昨年の長崎の原爆慰霊セレモニーで踊らせていただいた時刻に重なっていた。
鮮明にからだが記憶しているのは終演後ある被爆者の方が、本当に幸せにならなければねぇ、と手を握って仰った声の深い温かさだった。

友人からあるテレビ番組を見せてもらい衝撃を受けた。原爆は大統領の明確な決断なしに投下されていた事実がアメリカの未公開資料から判明した、というドキュメントをNHKが放送したものだった。

当時8割のアメリカ人に支持され現在なお多数の国民認識にあるという「命を救うための原爆投下」というトルーマンの主張は政治的演出だったのだという内容の番組だ。原爆投下指揮に当たったレズリー・リチャード・グローヴス自身の肉声による未公開録音テープの内容はさらにショッキングだった。

1942年に開発され始めた原爆を、アメリカ軍は梅雨と秋雨をさけ、最大限の破壊効果が予想される「8月」に投下するよう定めたのだという。そして「破壊効果が隅々まで行き渡る都市。人口が集中する都市。直径5キロ以上の市街地。8月まで空襲を受けていない都市」という条件で投下地が選ばれ、なかでもグローブスは京都への投下を第一に主張したという。「京都は住民の知的レベルが高く原爆の意義を正しく認識するだろう。京都駅を中心とした直径5キロの市街地に投下したい。また、広島は、地形から爆風の収束作用が強まり被害が最大限の効果を発揮する」そのような記録が番組では公開される。
本当なのだろうか、耳を疑いながら、しかし当事者の淡々とした肉声に胸をえぐられる。(長崎資料館で見た上掲の写真を思い出しながら、、、)


京都への投下は陸軍長官のスティムソンが否認、そのとき既に度重なる都市空襲が大量殺戮であるという認識があったのではと番組は語る。そして就任間もないトルーマン大統領は「そもそも私は戦争がどう進んでいるのか知らされていない」という戸惑いのなか軍の主張を検証することなく広島への原爆投下を黙認してしまったというのだ。8月8日に大統領トルーマンは広島市街の写真を見て動揺した。にもかかわらず動き出している作戦にストップをかける決断に及ばず、翌9日の11時2分に長崎に2度目の原爆が投下され、8月10日になってようやくトルーマンは閣僚を集めて大統領権限を発動、原爆の使用中止を決断する。当初案では1945年中に17発の大量投下が計画されていたという。

「人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している。日本の女性や子供たちへの慈悲の心は私にもある。8/9トルーマン」

「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい。8/10トルーマン」

との記録が番組ではさらに紹介され印象に残った。トルーマン大統領は市民大量殺戮を認識しながらも「命を救うための原爆投下」という大義名分を発したのだ。
もしもあの日々に大統領が自らの失脚を恐れず、正直な心の声をごまかさず、自らの人間的なおののきと後悔の念を公に発話していたら、歴史はどうなっていたのだろうかと、思う。

71年目にしてオバマ大統領は広島の慰霊碑の前でこう言った。
「より高い信念という名の下、どれだけ安易に私たちは暴力を正当化してしまうようになるのか」と。
この言葉を思い出しながら先の事実を知るとき、より複雑に心が乱れて仕方がない。

「より高い信念」などと。
僕らには目の前にある現実を克服できない弱さが未だにあり、経済に翻弄され、暴力に抗う知恵と言葉と方法を未だ持ち得ていない。
その認識からなのではないか、そう内心思う。

「22億ドルの国家予算を費やしているので効果を証明しないと議会から追及される 。戦争が終わるまでに原爆を使いたい」

これはグローブスの言葉である。この言葉をスティムソンもトルーマンも、聴いていたという。