「大量殺戮のもっとも大きな罪は、そのなかの一人の重みを抹殺したことにある」
という言葉を思い出す。
シベリア抑留を体験した詩人、石原吉郎による言葉で、それは「戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命にたいする罪である。およそその一点から出発しないかぎり私たちの問題はついに拡散をまぬがれない」と進む。
神奈川の犯罪はもちろん、テロであれ、鎮圧であれ、あるいは革命や正義の名のもとにであれ、人がイノチをあやめてゆく最近の特徴のひとつに、個体の重さを無視した(かつてジェノサイドで痛感したはずの)態度を、僕は感じてならない。
街で、空港で、祭の場や劇場や、ついには介護の場でさえも、不意打ちの暴力が突然襲いかかるその根っこに、人と人の関係性の破壊を感じてならない。
僕らは何故こんなふうになってしまったのだろう。
無防備の身に突如武力が浴びせられるその時、まず人は一人の人間である重みを奪われる。身体の損傷以前に、存在を破壊されるのだ。
その罪の深さは、その痛みを想像し得ない冷淡さ、無感動さ、にこそあるはずだが、現在の法は未だ存在を穢す罪を語り得ていない。
暴力者に、いや、僕ら一人一人自身にとってさえ、「一人の重み」という言葉はどれほど深く今、響いて「ある」だろうか。
怒りが世を満たしているに違いない。しかし、その怒りの正体を、その対象を、その抗いの仕方を、根本についてを、怒れる者は混乱する感情を鎮めて、まず静かに「考え」なければならないのでは、と正直思う。怒りとは人間(サピエンス=知恵ある存在)にとって、行動の根拠ではなく、思索の根拠であるはずでは、ないだろうか。
怒りは悲嘆と恐怖へ、そしてまた新たな怒りを呼び覚ます。が、現代のその背後には、例えば非常に複雑なとしか言い様のないグローバル経済や情報連鎖の構造が潜んであるのではないかと思う。理解のキャパを超える現実の拡張とその速度のなかで、怒れる者自身が、個としての、その怒りの根拠を理解できないでいるのではないだろうか。この状況を粘り強く理性でときほぐすことを、一人一人、少し少し、何とか出来ないか。
そのためには、日常から脱出して一人が一人になる場、様々な駆け引きやイデオロギーから自由になれる時間と、「自己」という「ひとり」の空間を、一人一人が正確に確保するしかないのではないかとも、あらためて思う。
つまり、一時でも、イマ・ココから離れて、自分自身を回復する時空を、一人一想の次元を、、、。
そのような場を機会を準備するのは、政治でも宗教でもなく、芸術や科学の場の役目なのではないだろうか、とも。
という言葉を思い出す。
シベリア抑留を体験した詩人、石原吉郎による言葉で、それは「戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命にたいする罪である。およそその一点から出発しないかぎり私たちの問題はついに拡散をまぬがれない」と進む。
神奈川の犯罪はもちろん、テロであれ、鎮圧であれ、あるいは革命や正義の名のもとにであれ、人がイノチをあやめてゆく最近の特徴のひとつに、個体の重さを無視した(かつてジェノサイドで痛感したはずの)態度を、僕は感じてならない。
街で、空港で、祭の場や劇場や、ついには介護の場でさえも、不意打ちの暴力が突然襲いかかるその根っこに、人と人の関係性の破壊を感じてならない。
僕らは何故こんなふうになってしまったのだろう。
無防備の身に突如武力が浴びせられるその時、まず人は一人の人間である重みを奪われる。身体の損傷以前に、存在を破壊されるのだ。
その罪の深さは、その痛みを想像し得ない冷淡さ、無感動さ、にこそあるはずだが、現在の法は未だ存在を穢す罪を語り得ていない。
暴力者に、いや、僕ら一人一人自身にとってさえ、「一人の重み」という言葉はどれほど深く今、響いて「ある」だろうか。
怒りが世を満たしているに違いない。しかし、その怒りの正体を、その対象を、その抗いの仕方を、根本についてを、怒れる者は混乱する感情を鎮めて、まず静かに「考え」なければならないのでは、と正直思う。怒りとは人間(サピエンス=知恵ある存在)にとって、行動の根拠ではなく、思索の根拠であるはずでは、ないだろうか。
怒りは悲嘆と恐怖へ、そしてまた新たな怒りを呼び覚ます。が、現代のその背後には、例えば非常に複雑なとしか言い様のないグローバル経済や情報連鎖の構造が潜んであるのではないかと思う。理解のキャパを超える現実の拡張とその速度のなかで、怒れる者自身が、個としての、その怒りの根拠を理解できないでいるのではないだろうか。この状況を粘り強く理性でときほぐすことを、一人一人、少し少し、何とか出来ないか。
そのためには、日常から脱出して一人が一人になる場、様々な駆け引きやイデオロギーから自由になれる時間と、「自己」という「ひとり」の空間を、一人一人が正確に確保するしかないのではないかとも、あらためて思う。
つまり、一時でも、イマ・ココから離れて、自分自身を回復する時空を、一人一想の次元を、、、。
そのような場を機会を準備するのは、政治でも宗教でもなく、芸術や科学の場の役目なのではないだろうか、とも。