踊りと関わることが無限無数の言葉に関わることにも隣り合わせと感じるようになっているのだけれど、さらにとてつもない広さの海が、ただ一人の人の一言から、目前に広がることがあるのも、確かだ。
吉祥寺に歩いてゆくその途中にかつて埴谷雄高さんのお家があったころの、通り過ぎる一瞬の背筋のざわめきは未だカラダに残るままだ。般若。埴谷雄高。
氏が走った思索の軌跡を、あるいは、『死霊』を始めとする奇跡的な文学にいたる、ある精神の自由と闘いの軌跡を、あらためて感じとることが、この対話の文字群から出来て、僕はまた震えてしまった。
立花隆と埴谷雄高の対話集「無限の相のもとに」を読んだが、これは怖ろしいくらい密度の高い、言葉の嵐だった。
日本で、革命という言葉が行為に直結していた時代を居た人の、まさに一人である埴谷氏の脳からこぼれ続ける飄々とした語りの、その語句一個一々が、育ち自体がすでに違う僕には事件のように荒々しい。そして、一々の言葉や句点さえもが、広大な観念の海を出現する。
ふと出る人の名その一人一人が私たちの歴史のベクトルを大きく揺るがした人物であり、それゆえ、何度もつまづき調べ直しながら、読むしかないから、これが文字にされている有難さも、やはり感じてならない。
体験ある人の言葉はスピードが速い。埴谷氏の言葉は一々が具体的なので、漠たる想像力では門前払いをくらうが、しかし困り果てながらも、この対話を追ううちに、いつしか、この世界の絶えざる終わりと始まりの連鎖に実は僕ら自身が置かれていることくらいは見せられてゆく。
思索という実体の衝撃波が、骨まで軋ませて、ゆく。
無限の図書館のなかに居るのだから、死ぬまでに一度くらいは心底とことん味わい尽くしたい書物がいくつかある。
ドストエフスキーの「罪と罰」と埴谷雄高の「死霊」はそれらの中でもすこぶる重たいし何度ページをめくっても表紙に戻り、心の前にアタマ及ば
ずと、痛感する。
そんな僕にとってさえ、埴谷雄高の言葉には魔力がそなわってるのではないかと畏怖を感じることがあり、また、それゆえ接近を繰り返してしまう。
この対話は、それらへの新しい矢印を、ほのめかしてくれる気もして、またそっと書棚に手を伸ばしている。
人は言葉を語る。そのことの、凄まじさ、が、まざまざと身に押し寄せる。
吉祥寺に歩いてゆくその途中にかつて埴谷雄高さんのお家があったころの、通り過ぎる一瞬の背筋のざわめきは未だカラダに残るままだ。般若。埴谷雄高。
氏が走った思索の軌跡を、あるいは、『死霊』を始めとする奇跡的な文学にいたる、ある精神の自由と闘いの軌跡を、あらためて感じとることが、この対話の文字群から出来て、僕はまた震えてしまった。
立花隆と埴谷雄高の対話集「無限の相のもとに」を読んだが、これは怖ろしいくらい密度の高い、言葉の嵐だった。
日本で、革命という言葉が行為に直結していた時代を居た人の、まさに一人である埴谷氏の脳からこぼれ続ける飄々とした語りの、その語句一個一々が、育ち自体がすでに違う僕には事件のように荒々しい。そして、一々の言葉や句点さえもが、広大な観念の海を出現する。
ふと出る人の名その一人一人が私たちの歴史のベクトルを大きく揺るがした人物であり、それゆえ、何度もつまづき調べ直しながら、読むしかないから、これが文字にされている有難さも、やはり感じてならない。
体験ある人の言葉はスピードが速い。埴谷氏の言葉は一々が具体的なので、漠たる想像力では門前払いをくらうが、しかし困り果てながらも、この対話を追ううちに、いつしか、この世界の絶えざる終わりと始まりの連鎖に実は僕ら自身が置かれていることくらいは見せられてゆく。
思索という実体の衝撃波が、骨まで軋ませて、ゆく。
無限の図書館のなかに居るのだから、死ぬまでに一度くらいは心底とことん味わい尽くしたい書物がいくつかある。
ドストエフスキーの「罪と罰」と埴谷雄高の「死霊」はそれらの中でもすこぶる重たいし何度ページをめくっても表紙に戻り、心の前にアタマ及ば
ずと、痛感する。
そんな僕にとってさえ、埴谷雄高の言葉には魔力がそなわってるのではないかと畏怖を感じることがあり、また、それゆえ接近を繰り返してしまう。
この対話は、それらへの新しい矢印を、ほのめかしてくれる気もして、またそっと書棚に手を伸ばしている。
人は言葉を語る。そのことの、凄まじさ、が、まざまざと身に押し寄せる。