杉並・西荻で開催しているフリークラスが楽しかった。
参加する一人一人の身体から、思いがけないイメージや躍動が溢れてゆく。短い時間だが、開始時の対話が身体の動きやイメージの膨らみに強く作用している感じがする。
僕が何かを教えている、というより、人と人が集い対話や雰囲気を共有しながら何かを学び合っている感じが素敵だ。いつしか、そんな空気が生まれている。
僕は先生役でもあるが、司会者やインタビュアーやコメンテーターや手本係などを色々渾然とさせていただく感じだ。
どのクラスでも集まってしばらくの時間はストレッチしながら少し話を交わすようにしている。前回のレッスンで気になったことも出るし、生活のことや気になる本や映画や音楽や美術のことなど、様々な話題が出て、ダンスに結びついてゆく。楽しく大切な時間だ。
アップ中のちょっとした話題が僕が準備した幾つかの引き出しに関連してレッスンのモチーフに繋がったりイメージの膨らみに作用することも多いし、何よりも参加者同士の関係がほぐれて、リラックスして踊れる雰囲気が開けてゆく。
実際、対話はダンスを豊かにしてくれる。そしてダンスがまた新しい対話を促すことも多々ある。筋肉だけでなく頭の中もほぐれて初めて踊れる身体になる気がする。
話して踊る、踊って話す。そんな繰り返しの中でこそ、心身が変化してゆく。
対話することは戯れの一種でもあるからか、言葉を交わすことは身体を他者に開いてゆく準備にもなるようだ。
踊りは孤独からではなく、関わりから生まれてくるのだろう。
だからレッスンの場も、単に何かを教え教わるだけでなく、言葉も感覚も身体も投げ出し合って、刺激しあったり共感しあったりしながら自分自身を拡大する場でもあるのだなと、いつも思う。
ほとんど毎日、何らかのレッスンをするが、いつも最後は共感の働きを感じて次へと繋がってゆく。それは約2時間のコミュニケートの実りとも言える。ダンスの稽古は響き合いの稽古でもある。
レッスンが学びだけでなく楽しみの場であること。
他者を感じながら自己を柔らかくする場であること。
一人一人が少しでも解放的で自由になれる踊り場であること。
そんなことを思って毎日稽古場にゆく。
単に指導者である以上に、参加者一人一人を活かした場のコーディネートを大事にしたいと、レッスンのたびに思う。
参加する一人一人の身体から、思いがけないイメージや躍動が溢れてゆく。短い時間だが、開始時の対話が身体の動きやイメージの膨らみに強く作用している感じがする。
僕が何かを教えている、というより、人と人が集い対話や雰囲気を共有しながら何かを学び合っている感じが素敵だ。いつしか、そんな空気が生まれている。
僕は先生役でもあるが、司会者やインタビュアーやコメンテーターや手本係などを色々渾然とさせていただく感じだ。
どのクラスでも集まってしばらくの時間はストレッチしながら少し話を交わすようにしている。前回のレッスンで気になったことも出るし、生活のことや気になる本や映画や音楽や美術のことなど、様々な話題が出て、ダンスに結びついてゆく。楽しく大切な時間だ。
アップ中のちょっとした話題が僕が準備した幾つかの引き出しに関連してレッスンのモチーフに繋がったりイメージの膨らみに作用することも多いし、何よりも参加者同士の関係がほぐれて、リラックスして踊れる雰囲気が開けてゆく。
実際、対話はダンスを豊かにしてくれる。そしてダンスがまた新しい対話を促すことも多々ある。筋肉だけでなく頭の中もほぐれて初めて踊れる身体になる気がする。
話して踊る、踊って話す。そんな繰り返しの中でこそ、心身が変化してゆく。
対話することは戯れの一種でもあるからか、言葉を交わすことは身体を他者に開いてゆく準備にもなるようだ。
踊りは孤独からではなく、関わりから生まれてくるのだろう。
だからレッスンの場も、単に何かを教え教わるだけでなく、言葉も感覚も身体も投げ出し合って、刺激しあったり共感しあったりしながら自分自身を拡大する場でもあるのだなと、いつも思う。
ほとんど毎日、何らかのレッスンをするが、いつも最後は共感の働きを感じて次へと繋がってゆく。それは約2時間のコミュニケートの実りとも言える。ダンスの稽古は響き合いの稽古でもある。
レッスンが学びだけでなく楽しみの場であること。
他者を感じながら自己を柔らかくする場であること。
一人一人が少しでも解放的で自由になれる踊り場であること。
そんなことを思って毎日稽古場にゆく。
単に指導者である以上に、参加者一人一人を活かした場のコーディネートを大事にしたいと、レッスンのたびに思う。