神なくとも祈る。
そんな気持ちの訪れが人にはあるように思えてならない。

まだ行けてないが、カラヴァッジョの大規模な展覧会が上野に来ていて、世界初公開という『マグダラのマリア』を含む。その写真をネットで見て、早く足を運びたい衝動に駆られている。6月まで。

教科書なぞるような名画展はうんざりで、これぞアノ誰ソレの、と言われても行くものかとつい捻くれる性分だが、カラヴァッジョなら別だ。喉から手が出る。

行方不明が2014年に発見された、カラヴァッジョの幻画『マグダラのマリア』。それは小さなPC画面でもびびった。この絵の美貌は暴力スレスレだ。

まさに闇と響きあう震えそのものとも言えるカラダ、が、タブローに晒け出されている。法悦いや嗚咽するカラダというのだろうか。

聖娼の悶えるような曲線の孤独が闇に分解され、その闇の奥には茨の棘と十字架が幽かに見える。それを境に赤々とした光の予感が淡く彼方に広がってゆく。マリアの虚ろ寸前の半眼に一粒だけ涙がのこる。そんな絵だ。

カラヴァッジョは天才と呼ばれながら絵筆より剣を握る時間の方が多かったというほど喧嘩っ早く人を殺めた事さえある画家だ。

その絵を初めて見たのはローマの教会でだった。罪と赦しの境目を垣間見せられるような巨大画を前に、身を硬くした。聖も俗も無かった。パイプオルガンよりも現代のバラードが似合うとも、思った。
ローマに散在するカラヴァッジョをハシゴした。ノラ猫と逆光と埃とサングラスとざわめきが、カラヴァッジョにはぴったりだった。

闇は官能的に絶望し、光は切なく淡い。
その「あいだ」に横たわる人肌だけが、ただただ確かだ。
生々しい。体臭まで匂う。

カラヴァッジョの絵には神なるものの遠さが隠されているようにさえ感じる。
もとより「いない」という存在の仕方を神と仮称するのかもしれない。
いない神にこそカラヴァッジョは祈っているのではないか。
不在ゆえの「ある」ということ。虚しさとは、違う。
500年前のその絵にはすでに21世紀が香ってあるのではないか。酒霊バッカスさえ闇を見つめるのだから。

画家は、描くことによって、見つめることによって、見つめられることによって、神なくとも祈る祈りを祈っているように思えてならない。