カラダの起源が男と女の出会いとすれば、ワタクシなるものは関係の結晶であるかもしれないと思えてくる。どんな人と、どんな空気と、どんな色彩や、どんな音と、関わるのかという刻々が、私たちの私なるものをつくって、カラダは現在を形成してゆく。踊りが露呈するのはカラダの魅力。それは現に在る姿そのものなのだが、それは同時にカラダに堆積している様々な関係の縮図でもある。ひとつの身体が立ち居振る舞う過程から滲み出てくるのは、その身体に染み込んだ色々な関係のドラマなのだろう。垂直に立っている姿それ自体も天地はじめ様々な森羅万象といかに関わっているのかという、関係の表出そのものなのだろう。そう思うと、踊りの作品を作るというのは、身体の孕んだ関係の糸を読み解く作業にも思えてくる。何を主張するかというスタンスと違って、この小さな肉体という一物が、いったい何を宿していて、いま何に開かれてゆこうとしているのか。舞台という場所で、いかなるものに出会い関わり生まれ直してゆくのか、ということに興味がフツフツとしてくる。そう思いながら街を歩いていると、色々な垂直に出会う。生き生きした垂直、どこか哀しい垂直、懸命な垂直、、、。産まれ落ちたカラダは立ち上がり飛び立とうとして生きてゆく。関わりがカラダに栄養を与える。関わることと存在すること。きりがないが、そこに命があるようにも思える。