お喋りのくせに言葉というものにもどかしさを感じる。本当のことばが欲しい、いつもそう思ってしまうほどに、言葉は何か本当とすれ違うことがある。言葉とは、どこか虚ろを孕んでしまうものなのだろうか。
大切なことを伝えたいとき、言葉を尽くして語ろうとするほどに、どうにも伝え切れない何かが残って、ほんとうに言葉が尽きてしまうことがある。そこに沈黙が訪れる。沈黙のなかに立たざるを得ないカラダがのこる。そして、カラダのなかでは尽きてなお語ろうとする別なる言葉が沸騰するような感覚を味わうことがある。
人と、人の心とマトモに向き合おうとすればするほどに、唇から溢れでる音声に対して、ちがう、としか思えないある一瞬が訪れてしまう。そうではない、もっとこんなに、と、まだ無い言葉が何とか形を成してゆこうともがくように熱を発する。その瞬間こそ「関係」が初めて始まるときではないかと、思う。
沈黙は対話の原初体験だと言ったのは、哲学者ミシェル・フーコーだったが、まさにそうだと頷かずにいられない。
沈黙の訪れ、それはカラダが語り始める瞬間でもある。対峙し、向き合い、やがて、抱き寄せるか、あるいは去るか、というような瞬間。言葉が尽きた後の沈黙のなかで感じ合ったものは、魂の根に染み込んで長く響いてゆく。そう感じて仕方ない。
大切なことを伝えたいとき、言葉を尽くして語ろうとするほどに、どうにも伝え切れない何かが残って、ほんとうに言葉が尽きてしまうことがある。そこに沈黙が訪れる。沈黙のなかに立たざるを得ないカラダがのこる。そして、カラダのなかでは尽きてなお語ろうとする別なる言葉が沸騰するような感覚を味わうことがある。
人と、人の心とマトモに向き合おうとすればするほどに、唇から溢れでる音声に対して、ちがう、としか思えないある一瞬が訪れてしまう。そうではない、もっとこんなに、と、まだ無い言葉が何とか形を成してゆこうともがくように熱を発する。その瞬間こそ「関係」が初めて始まるときではないかと、思う。
沈黙は対話の原初体験だと言ったのは、哲学者ミシェル・フーコーだったが、まさにそうだと頷かずにいられない。
沈黙の訪れ、それはカラダが語り始める瞬間でもある。対峙し、向き合い、やがて、抱き寄せるか、あるいは去るか、というような瞬間。言葉が尽きた後の沈黙のなかで感じ合ったものは、魂の根に染み込んで長く響いてゆく。そう感じて仕方ない。