僕らは人の形をとるでしょ、、、。ある日、坂東玉三郎氏がテレビ対話で、さらりとそう言うのを流石と唸った。舞手なるしごとの核を突くさりげないことば。「ひとのかたちをとる」なんだかとても強い共感と尊敬を感じた。感じながら、ふと一本の映画を思い出した。スイスのダニエル・シュミット監督によるセミドキュメンタリー映画『書かれた顔』。1990年制作。若き玉三郎の姿が鮮明に刻印されたこの映画は、踊りについて芸について玉三郎を軸に様々な人が語らい断想を演じる「化身の映画」なのだが、同時に、「化身する/変容する」なかで生まれてくる何者かの「息吹き」と息吹を呼び込む「静けさ」を巡る映画でもあった。
夕刻の闇迫る風景が印象的な「黄昏」の映画でもあり、人が我と別れて別人に移ろいゆく姿が黄昏の風景に美しく重なる映画でもあった。見つめていると、存在と存在の間の「あわい」というか、僕ら人と人の境目が次第にぼやけて溶けてゆく。映画館の暗闇で見つめていると、映画を観ているのだが、それ以上に光の明滅を見つめているようであり、そのスクリーンの明滅自体が魂火の明滅を暗示しているようで、何とも切ない気分になるのだった。玉三郎のほかには、日舞の武原はん、舞踏家の大野一雄、女優の杉村春子、などが出演していて、いづれも美しく厳しい絶妙の身振りや発話の瞬間が映されているのだが、とりわけ、撮影当時101歳にして現役最高齢だった芸者さん蔦清小松朝じ氏(1996年没)が語るシーンで僕は強く強く胸を打たれた。彼女の存在自体に時の移ろいが全て溶けていて、凛と座る背筋が燃え盛る炎のように錯視されるのだった。
夕刻の闇迫る風景が印象的な「黄昏」の映画でもあり、人が我と別れて別人に移ろいゆく姿が黄昏の風景に美しく重なる映画でもあった。見つめていると、存在と存在の間の「あわい」というか、僕ら人と人の境目が次第にぼやけて溶けてゆく。映画館の暗闇で見つめていると、映画を観ているのだが、それ以上に光の明滅を見つめているようであり、そのスクリーンの明滅自体が魂火の明滅を暗示しているようで、何とも切ない気分になるのだった。玉三郎のほかには、日舞の武原はん、舞踏家の大野一雄、女優の杉村春子、などが出演していて、いづれも美しく厳しい絶妙の身振りや発話の瞬間が映されているのだが、とりわけ、撮影当時101歳にして現役最高齢だった芸者さん蔦清小松朝じ氏(1996年没)が語るシーンで僕は強く強く胸を打たれた。彼女の存在自体に時の移ろいが全て溶けていて、凛と座る背筋が燃え盛る炎のように錯視されるのだった。