吉祥寺の街でちょっとした人だかりがあって近づいたら可愛い可愛いという声が聞こえる。少女の肩に大きなフクロウが乗っているのだ。お散歩中だからと去ったが、間近に見たのは初めてだった。あんなに愛らしくて、あんなに立派なものとは知らなかった。全く音を立てないで飛行できるフクロウはとびぬけた聴覚の持ち主らしく、音を立体で認識できるという。だから眠りながら目覚めていることができるのだろう。

そんなフクロウの愛らしさに萌えながら『目を閉じて』というルドンの絵を思い出した。愛する奥様のお顔の絵だが、目を閉じたそのお顔が放つ桃色とも紫色ともつかないアウラが、フクロウの発していた柔らかな気配はそれに似ていた。

この絵を眺めていると脳みそや胸奥を飛び回るうるさいものが消えて耳の通りが良くなってゆく。

じっと外側に耳を傾けることで何かと溶けてゆくことができる。見ることが私と何かを区別することだとすれば、聴くことは私と何かをひとつに結びつけることではないかしら。と思えてくる。

聴くことは、触れることのように、あるいは何かに触れられることのように、安心感や温度を与えてくれる。

フクロウの姿も、ルドンの絵に描かれた奥様のお顔も、ゆったりと何かを聴いている。

ダンスを踊っていると落ち着くのは、ずっと何かを聴いているからかもしれないが、聴く、というのは鼓膜で何かに触れるということだと思う。

鼓膜は皮膚の一部だし、逆転すれば、皮膚は鼓膜の延長とも言えるから、全身がいつも何かを聴いているのだと思う。

鼓膜は空気や湿度や温度の振動を通じて、いつも何かの存在を僕に触れさせている。触れた何かが皮膚全体に広がって毛穴からしみこんでくる。

触れる、というのは僕にとっては外側の何かを感じながら自分というものの存在を知覚することでもあるのだろうか。自分以外の存在に触れることなしに、僕は果たして自分というものを形成することができるのだろうか。

目を閉じると色々なものが聴こえてくる。聴こえてくると、色々なものが近く近づいて、触れてくる。