世間とか社会とか生活といった「しがらみ」を忘れる時間が、人間には必要だと思う。
今している仕事、暮しまわりの事、明日の事、将来の事、自分自身のことや家族のこと、、、。
それらから脱出してゆく時間。

脱出することは出発することだ。

仕事から脱出するとき、家から脱出するとき、僕のダンスは出発する。
ダンスの出発とは私という枠から脱出することでもある。
群れから個へ、羊から狼へ。何者かである私から、未知数の者へ。
変性の旅に出発すること。

そのとき、僕は体重を取り戻す。
自らの重さとともに、自らの手や足や心臓の存在をたっぷりと感じる。
感じながら「驚くべきものは身体である。私たちは、身体が何を成し得るか、まだ知らない」という、スピノザの言葉のように、
手や足の重さや質感に驚き、心臓の音に聴き入る。

そして、社会という場所から脱出して、生命という場所に着地する。
そこで深呼吸をして、水を飲む。
音を聴き、その中で身動きしながら、喜怒哀楽の波を浴びる。
あえてワガママを貫ける「ゆるし」が、踊りの宇宙にはある。
同時に、嘘をゆるさない「まなざし」が踊りのエチカには、ある。
そんな場所に、そんな時間に、、、。

そしてまた、もとの場所へと戻ってゆく。戻りながら、僕が囚われていることや、逆に、僕が担わざるを得ないものについて、少しばかり考える。

少しづつ、何かが氷解してゆく。瘡蓋が剥がれるように。

繰り返すこと。
繰り返し往復すること。
繰り返し脱出すること。
繰り返し出発すること。
繰り返し挑戦すること。
繰り返しながら、、、

脱皮してゆくこと。
息吹き続けること。