「もっと教えてほしいことがあった。
もっと聴いて、感じていたかった。
この人の音楽を、、、」

というのはヴェルギリウスの言葉だが、この言葉は、踊っている時の気持ちにとても近いなと思えてならない。

踊りには、魂を入れ替えるようなチカラがあると思う。

稽古前には少しばかり重かった心に稽古後には別の感触が芽生えて、よし、とか、さて、とか思えてくる。
クラス終わりのとき、メンバーの顔が活き活きしている。
舞台がはねたとき、観客席から何か風のような爽やかさが吹く。
変化するアウラ。
魂の入れ替わり、、、。

踊りながら、踊り手は何かを聴き何かを感じている。
感じる心が身体を動かす。
耳を傾け、何かが心に響いた時に、身体がふと動かされる。

踊りの身体の動きは、心の動きの反映なのだと思う。
内面を静かな水面のようにすれば、そこに何かが届いたときに水紋が広がり始める。
心動かされるままに身を揺するとき、音や運動が、私という生き物に息を注ぐ。

硬く閉ざしそうになった胸や背中や肩には、日常を耐える人にはわかる感情がひしめいている。
おそるおそる両手を広げる、じっと拳を握る、何度も何度も床を踏む、、、何でもいいから、何か気持ちを込めてやってみると、そこからダンスは始まる。絡まり固まりかかった感情のシッポが、ほぐれ始めるはずだ。

やがて、カラダの動きや温まりとともに雑多な感情のひしめきは散らばり消えて、水鏡のような内面の静かさが訪れるとき、私たちの周囲の音や言ノ葉は、魂に直接語りかけてくれるのではないかと思う。
そして内面には新しい波が波打ち始め、身体の動きは強張りを解いて、何もかもと溶け合い開けてゆくのではと思う。そのとき、音や言ノ葉は無限や全てを教えてくれるのだと思う。

そんな瞬間の到来を待つこと。
そんな瞬間を受け止められる器へと、心身をケアして磨いてゆくこと。
そんな瞬間が来るまで自分を信じて大切に育て上げること。
そんなプロセスが、踊りの稽古であり学びなのかなぁと、思えてならない。

もっと聴いていたい、もっと感じていたい、
もっと会っていたい、

とても、とても、、、。