ことば、といえば、、、。
文学者に踊りの名手が潜むのは不思議。

白州正子さんの能、淀川長治さんのバレエ、
三島由紀夫さんの薔薇刑は何と言っていいかわからないが矢張り息を呑む舞姿。吉本ばなな氏が長くフラダンスを学んでいられるのも皆さまご存知。

言葉の達人は、言葉以前の言葉にやはり通じようとしているのだろうか。

そう思いつつ思い出すのは井上光晴さんの踊り。僕には嫉妬するほど面白い。とんでもなく魅力的で面白いと思う。

『明日―1945年8日8日・長崎 』という小説が、僕は好きだ。

文字通り、原爆投下前日の長崎を舞台にして、人々の淡々とした、しかし、ささやかな喜びの豊かさが描かれる。戦争中だが、生活の中には僕らの現在と変わらない喜怒哀楽がある。結婚式がある。夫と再会する妻もいる。第1章に始まる小説の最後は「0章」と名付けられ、そこに展開するのは、一人の人間が生まれる出産風景である。8月8日の夜が明けて8月9日早朝、赤ちゃんが生まれる。生まれた生命を抱きしめながら母は夜明けの美しい風景を眺め、鳥たちのさえずりを聴く。そして小説は終わる。その数時間後、長崎に何が起きたかを僕らは知っている。「明日」という希望が、時としてとんでもない絶望に転じることも、、、。

しかし、この小説を読んで沸き立つのは、しみじみとした生命への愛しさである。愛しさは、悲しみも喜びも希望も絶望も、全部こみで愛しさなのだろう。

沢山の過去を知ることで僕らは沢山の心配をいだくけれど、その心配のせいで、いまこの瞬間に生きて感じていることを喜び味わうことが出来なくなったなら、僕らはこの世に生まれこの日々を過ごしている素晴らしさを見失なってしまう。

「明日」よりも「今日このひととき」を、生き尽くしたい。

僕は踊りが好きで何十年も続けているが、自分の稽古でもクラスのレッスンでも舞台でも、いつも、一瞬一瞬を大切に抱きしめる練習を淡々と繰り返していると感じている。
踊りの稽古は、肯定力を高める稽古だと思う。
毎日いろんなことがあるが、一日の終わりや週の終わりを、踊りで味わいなおす習慣がついて良かったと感じている。

明日はわからない。わからないから今日を生き尽くしたい。そんな気持ちが踊りにはあるが、そんな気持ちを強く確かめさせてくれる力を、井上さんのこの小説から、いただく。

井上さんご自身、全身全霊で日々を過ごした人だということが、井上さんの踊りから香り立つ。

井上さんの踊る姿は『全身小説家』(原一男監督)という傑作ドキュメンタリー映画の冒頭に出てくる。何度も観ている。

井上さんは小説家だが、それ以上に全身人間と感じてならない、小説を書き、語り尽くし、それでも何故か踊る井上さん。

その踊り姿は理不尽なまでに踊りである。そこにはウソもホントになるような、わけのわからない熱烈さや色気があって翻弄される。翻弄される快楽を、くれる。あゝ、いいな、と思う、、、。

そう言えば、このドキュメンタリーを何度か観て、実は、もう一人の目当てが登場人物のなかに居ることに気づく。故・埴谷雄高さんだ。埴谷さんは踊らないが、その姿自体が踊る人に近い。埴谷さんは土方舞踏を胎内瞑想と呼んだ人だ。

埴谷氏の文学は読むとアタマが狂う。狂うのが悦楽で、つい読む。狂わされながら、ふと、その下にある論理性に膝を叩くが、そのあまりのマットウさに自らを墜落される。
愚痴や退屈や昼寝を保守するには不向きな、この文字列を生み出した埴谷氏の家は吉祥寺にあって、買い物に行くとき、よくその前を通った。二つ標札があり、般若豊と書いてあった。ご本名は「般若」なのかしら。その門前は映画のなかにしっかり映っている。

般若氏は、いつも首を少し揺すりながら、酒を飲んで笑い話す。その首の揺すりが、僕はツボにハマる。いたずらなダンスに見える。