三島由紀夫の家、澁澤龍彦の書斎、泉鏡花の原稿。

なにか読んだら、どんな場所で書いたのかな、という興味が湧く。
どんな場所で、というのは、どんな姿勢で、でもあるし、どんな景色を見ながら、でもある。
場所はカラダにつながっている。
カラダは言葉につながっている。

太宰治の小説から、いろんなことを想像するのが楽しかった、いまも。

『斜陽』が好き。とりわけ女性たちの声や仕草を想像していると弦楽四重奏みたいだと勝手に感じてならない。
『人間失格』が好き。とりわけ、どんどんと流れ転がってゆくような感触が。

ストーリーを追いつつも脳ミソのどこかで、ニンゲンシッカクニンゲンシッカク、と呟きながら読んでいると、なんだか底がなくなってゆく。
底なし沼の設計というか、渦巻き的文字列というか、これいったい、どんな場所で書いたのかな、という興味があった。

『人間失格』が書かれたのは『碧雲荘』だが、実はウチから徒歩圏なのだと知った、それから、もう取り壊しが近いとも。
それで、知ってしまうと詰まらないと思う反面、行っておきたくなって、行った。

アパートだから中は見れないけど、あの角の部屋ですよ。
と教わって、窓をみる、その欄干をみる、、、。
建物も垣根も庭の湿り気も、その場所は未だ当時のママ、綺麗に「保存」されているのでなく「のこって」いる。
朽ちるまではいかないが、次第に消えていきそうな気配がすこしばかり感じられた。
なるほど、ここか〜、そうか〜、と声が出そうになった。

ひとつひとつの言葉は生まれた場所をまとっている。
ひとりひとりの人がそうであるように。