「底の底、奥の奥にある聴こえない、見えない通奏底音の刹那の断面のような・・・」



これは、以前のソロ公演のあと観客の方からいただいたご感想のなかの一節である。僕自身の心持ちなどより遥かに大きな、響きのような言葉。静かで、それでいて轟々とした響きがきこえてきそうなこの言葉に、圧倒された。
踊りが解釈されるというより一種の媒介になって観客の内部に沈潜する何かが響きをたてるのだろうか。

踊りは響きと分かちがたく結ばれて存在する。
踊りは動きのみならず、響きは音のみならず。

新作を稽古しながら、ふとそんな思い湧く。

動きなく、音もなく、ひたすらジッと存在や重力を保つ。
無音の響きとしての身体というものが、あるのか。
運動なき運動が、熱を発しようとする。
自分というものがだんだんと白くなって
代わりに骨や重さが輪郭をはっきりともちはじめる。
いままでに無かった感覚。

これを、いかに受け止め、舞台に反映できるか、、、。
作品の主題とは別の、からだの純粋な挑戦が今作のなかで始まっている。

無響室というものがあると友人から聞いたことがある。
音を遮断した密室そこに入って自分の心臓や呼吸ばかりが音になり、普段感じられないような生命体験を得たという。
一度そんな部屋に入ってみたいと思いつつ想像ばかり膨らみつつ今にいたるが、実はダンスの渦中で似た体験をすることが時としてある。

今回の作品『失われた地へ』は、2015年に入って4作目の発表。
3月の『サイレントシグナルズ』、7月の『死のフーガ』、8月の『弔いの火』、いづれも音とダンスが相互に寄り添うように進行したから、稽古では常に何かの音が流れていたが、これらと同時に進めてきたこの11月公演『失われた地へ』は、身体の動きが完全に先行した。

沈黙のまま殆どの踊りが出て蓄積した。

音の流れていないシンとした稽古場で衝動を待つ身体。
動く身体。停止する身体。身体、身体、、、。

沈黙のなかで生まれては消える運動や佇まいや表情を記録し見つめながら、
やがて潜在意識を読み取るように、音をイメージする作業が始まった。
走ってゆく身体に追いすがるように、ポツリポツリと音のアイデアが浮かぶ。
楽譜やスケッチが散乱してゆく。

そんな作業のなかで、しばしば自分の心音や吐息が大きく聴こえた。
鼓膜が体の内部からの音に振動しているようだった。

無音のままに一繋がりの時間を刻んできた踊りがある。
いま、そこに音を当ててゆく。
音はこの一年近くの生活と夢の痕跡でもある。

カラダから聴こえてきたもの。
絡みあい突き放しあい、ダンスは舞台に近づいてゆく。

舞台は魂の場所。そして真空の場所。そして未明の場所。

そこに、少しづつ、近づいてゆく。

響きが起きるか。

(写真=『Dance for dead』ルクセンブルク大使館委嘱公演より)


櫻井郁也ダンスソロ新作公演:公式ホームページ