レッスンのなか、舞手と観手の関係性についての質問を得た。答えながら体験を思い返した。踊りに関して、僕自身は「観る」という言葉よりも「立ち会う」という言葉のほうが相応しく感じている。ダンサーの身体と観客席にある一人一人の視線と心が関わり合ってゆく刻一刻のなかで生まれては消えてゆく何か、その現場が踊りそのものなのではないかと思えて仕方がない。外側から眺めるというより、場に立ち場に出会う。立ち会う、という言葉にはそんなニュアンスがある。

ある人にビデオを見せたら、実際はこんなではなかった。と言う。これは映像と音だけ。それ以外のものが沢山あって、だからナマを観に行くのだよと言う。

ノートに、似たような事がメモを。
たまたま、みつけた。

「私は私の踊りを観ることができない。想像は出来るかもしれないが、そうすると瞬間瞬間の体験の質や量が変わってしまって、踊りが本当の踊りでなくなるだろう。私には見えない風景が観客には観えているように思う」

観客と踊り手。というが、実はその双方の間に現れて消える何かが踊り。身体が視線の力や心の声を浴び感じながら踊りは生まれる。そういう分かりきった事が本当にそうなのだと、近年かなりリアルである。

舞台では、生きている人の眼力が、こちらに向かってくる。それが、自ら用意した主題や音楽やイメージを超えて、身を揺することが多々ある。そして、想定は壊れて、その場その時にしかあり得ない現象が起こる。これが「オドリ」であり「作品」である。

踊りの舞台は虚構でなく現実そのもの。いまそこにある身体・時間・空間、それを感じる。生きている者と生きている者が紡ぎ合う「時」そして「場」それが踊りの舞台なのだと思う。

そう思うかたわら、もう一つ、気になるメモがある。

「たしかに私はここにある。そしていつかはここにいなくなる。やがて向こうがわから、ここを見るとき、私はどんなことを感じるだろうか」

不思議なメモだが何を思って書いたのか。稽古の合間に出る言葉には、ちょっとした謎も多い。

11/7〜8上演:櫻井郁也新作公演、公式サイト