ソットヴォーチェ、という言葉があります。

音楽用語で、かすかな声で歌うこと。小さな声だからこそ広がってゆく世界。あえて、そっと歌う。

カラダに向き合うときにも、それはある。いや、そのときにこそ、、、。

ピアニッシモの空間。激しく熱するときにこそ、沈黙を聴き取ろうとしてゆくこと。

ダンスの最も貴重な瞬間は、そのような行為のなかで生まれるような気がしてなりません。



ソットヴォーチェ。という音楽用語が、僕にとってはダンスの用語のように響いて仕方がないのです。

内部のさらに奥の奥まで、心の耳を澄ますことで、初めて身体の本当の「ふるえ」をキャッチすることができるのではないか、と、思えてならなくて。

身体は炎のように震え揺らぎながら立っています。じっとしていても、揺れを感じます。揺れを感じ、揺れを鎮める。ゆえに立つことが生まれる。

身体の奥にある絶えざる蠢き、それは常にデリケートに外界と内界を往復する生命のバランス感覚。思考や意志や感情として認識される以前の、生き物としての無音の言葉であるように感じます。

その、無音の言葉をすくいあげて空間や時間にそっと放つ。そんな働きが、ダンスにはあるのではないかと、いま制作中の新作リハーサルのなかで、そんな感覚が満ちてきています。

今回の作品、タイトルは最初に英語で浮かびました。

『LANDING ON THE LOST』すなわち、失われた何かに着地すること。

毎日踊っていると、そこに言葉が降りてきます。step on よりも land on という感覚が、この踊りにはあるのかな。そこから。

その言葉と踊る姿を見届ける美術家との対話から、日本語タイトル
『失われた地へ』という名が付けられました。被爆忌の長崎で踊った後のことでした。

今回の作品には何重にも大地を巡る思いが入っているのではないか、、、。

地を踏みながら毎日を過ごし、日々を過ごす身に降り積もってゆく記憶と予感があり。それを受け止めている地そのものの感情に意識が揺れた瞬間の堆積が、この作品を紡いできたのでは。との対話、あるいは、反芻。

思えば、、、。

あの震災直後に春がきて、しかし放射能がしんしんと降っていた、そのなかで芽吹いていた幼い樹木が、いま毅然と太く育っていて、その姿を見つめる眼が、ふと褐色の大地を見つめていた。

被爆忌の長崎で踊ったとき、踵を刺す地熱が祖先の声に思えてならず、しかしその地に遊ぶ子どもらの腕白と無邪気に、身が心が揺れた。

例えばそれらの経験の経過が、ダンスなるものに。

稽古を重ね、シーンが現れます。しかしそれらの再現ではなく、そこから始まる何かを舞台に。と、思います。本番では完全即興をふんだんに与え、1時間半ほどの時を踊りの生成に捧げたく思っております。

踊り手として、
からだの声だけになること。ひたすら沈黙して、どこまでも地に血に身を委ねてゆくこと。

ダンスを通じて、身体に眠る様々な感覚や記憶や予感を呼び覚まし、この生命を大地に捧げたいと思います。

からだから、何かが始まる。じっと地に触れながら。

深く眠る光を見つめるような体験をしてもらえるようなダンスでありたいと思っています。

舞台は11月7~8日の土日。秋が深まる夜です。

11月:櫻井郁也新作公演、公式サイト