ダンスは表現とも言えるが表情でもあると思う。動きによってまた新たな感覚や感情が内部に起きるから、それが身体全体の表情になって流出するように思う。

心躍るから踊る、踊るから心躍る。どちらが先にというより音楽のフーガのように連鎖している。

ダンスは静止と動きが働きあう。動きから静止が、静止から動きが生まれる。動きの探求は静止の探求でもある。

わずかな動きが出る瞬間、わずかな静止に至る瞬間、いずれも感覚に裂け目がはしる。感覚が変化して自分のなかに新しい自分がいる。ダンスは自分という何ものかの仕組みを気付かせてくれる。

11月に上演する新作の稽古のなか、そんなことを垣間見る。

ふと、dancewise、という言葉を思い出す。

この言葉をきいたのは、マース・カニンガムの著書だったかと記憶している。

いま観たままがそのまま頭に残るという体験を氏のダンスから得た記憶。伝達の手段としてのパフォーマンスではなく、その場その時その身体に起きているコトそのものに、立ち会っている、という体験。その人の言葉に何故か親近感を感じてしまう最近。

dancewise。

辞書などにもないから、造語なのかしら。踊りからの知、とか、踊りによる思慮、とか、そんなニュアンスなのかもしれない。

踊りから始まる何か。
結果としてではなく始まりとしての踊り。
そんなことがあるのではないか、ということを、この言葉は喚起する。

本番中の舞台で、踊りながら踊りに体が動かされ次々に雷みたいに踊りが落ちてくる、みたいな感覚がある時が時にあり、その感じにもハマる言葉。

ダンスを通じて体験している何か。それを捉えること。

水面に一粒の石を投げ入れるように、一つの動きや一つの静止から知覚に、認識に、感情に、思考に、波紋が起きる。それが古い意思を壊して新しい意思が疼き始める。

踊りから音が聞こえてくる。踊りから空間や色彩が見えてくる。
それらと似て、踊りから思考が湧き、踊りから言葉が浮かぶ。
それらがまた、踊りを呼ぶ。

そんな感じにフィットするのかもしれない、このカニンガムの言葉は。親近感が湧く。

dancewise。