一生って。一瞬って。
がらにもなく、そんなことが気になります。
時、というもののスケールが変わり始めている感覚が、最近、あります。
ふとこのブログを読み返し、この数年、とてもたくさんの人を失ったんだなと思いました。身近な人、尊敬した人、支えてくれた人。冥福を祈りながら、思い出しながら、の数年ですが、かと言って、哀しみに浸る余裕もなく、やるべきことをやる以外、何もない実感。
この夏、実は友人の一人も逝きました。ストリートダンサーの兄貴分で、慕われ、芸能会社を興していた人。突然舞台を見にきて、こんな踊りアリかよ、って笑う人でした。会うたびに「一度サシでゆっくり呑もうぜ」と繰り返していましたが、実は会うたび少し名残惜しい感じがあった。バタバタとすれ違いながら、今夜は空けろよと言えなかった。まだまだ時間があると勘違いして、じっくり話す機を失いました。
一人、また一人。亡くなる人が増えて、時を過ごすことは、こういうことなのかな、と、感じ、そして「一生」というスケールが年とともに不確かになります。当然のように明日があると思っていたけど、わからないんだな、という実感が、いつしか始まっています。それに伴うように、「一瞬」とか「いま」というスケールが輪郭をくっきりと現し始めた感もあります。
悔いなき時を、いま過ごしているか。悔いなき行為を、いましているか。悔いなき声を、いま発しているか。見たいものを見、聴きたい響きを聴いているか。
まだ人生半ばと思うかたわら、もしやまもなく、という気持ちも、風吹くことがあります。「いま」なるもの。それが踊りに切実になりつつあります。
いつか、でなく、いま。
11月の舞台には、こんな気持ちが反映するでしょうか。それ以前に、そして何よりも、11月7日と8日という本番を、ベストの状態で踏まねば。です。
気がつけば、理屈でなくリアルに、舞台の日は通過点ではなくなっています。
命、という言葉が、気がつけば身近になって、、、。
がらにもなく、そんなことが気になります。
時、というもののスケールが変わり始めている感覚が、最近、あります。
ふとこのブログを読み返し、この数年、とてもたくさんの人を失ったんだなと思いました。身近な人、尊敬した人、支えてくれた人。冥福を祈りながら、思い出しながら、の数年ですが、かと言って、哀しみに浸る余裕もなく、やるべきことをやる以外、何もない実感。
この夏、実は友人の一人も逝きました。ストリートダンサーの兄貴分で、慕われ、芸能会社を興していた人。突然舞台を見にきて、こんな踊りアリかよ、って笑う人でした。会うたびに「一度サシでゆっくり呑もうぜ」と繰り返していましたが、実は会うたび少し名残惜しい感じがあった。バタバタとすれ違いながら、今夜は空けろよと言えなかった。まだまだ時間があると勘違いして、じっくり話す機を失いました。
一人、また一人。亡くなる人が増えて、時を過ごすことは、こういうことなのかな、と、感じ、そして「一生」というスケールが年とともに不確かになります。当然のように明日があると思っていたけど、わからないんだな、という実感が、いつしか始まっています。それに伴うように、「一瞬」とか「いま」というスケールが輪郭をくっきりと現し始めた感もあります。
悔いなき時を、いま過ごしているか。悔いなき行為を、いましているか。悔いなき声を、いま発しているか。見たいものを見、聴きたい響きを聴いているか。
まだ人生半ばと思うかたわら、もしやまもなく、という気持ちも、風吹くことがあります。「いま」なるもの。それが踊りに切実になりつつあります。
いつか、でなく、いま。
11月の舞台には、こんな気持ちが反映するでしょうか。それ以前に、そして何よりも、11月7日と8日という本番を、ベストの状態で踏まねば。です。
気がつけば、理屈でなくリアルに、舞台の日は通過点ではなくなっています。
命、という言葉が、気がつけば身近になって、、、。