漫画家の水木しげるさんが73年前に太平洋戦争への出征直前に書かれた手記が発見されたというニュースを読みました。氏は93才とのことですから、20歳の手記。読みながら、記事中に引用されている数行から、若き水木氏の言葉の力強さに感銘を受けました。
水木氏といえば、あの「ゲゲゲの鬼太郎」。その漫画一話一話に共通して満ちあふれる不思議なエネルギーは、氏ご自身の内部にあるものが絵に物語に現れたのに違いないと思います。だから何度でも読めて、何度読んでも新しいワクワク感がわいてきます。ワクワクすると元気になります。元気をくれるのが、水木氏の妖怪だと思います。戦記をふくめ、氏の漫画の魅力には圧倒されっぱなしで、その底に僕はいつも、何があっても生きてやるぞ、という自立感というか独立感を感じるのです。その強い心が、先の記事に紹介されたわずかな言葉から溢れていて、尊敬の念が湧きました。仕事をもって、家族や友人をもって、毎日を切り盛りしている人の生の言葉でもあると思いました。カミサマや偉人の言葉よりも、やはり、僕は生々しい生きた個人の言葉が好きです。なかでも「私には本当の絶望と言ふものはない(記事より引用)」という言葉には特別な何かを感じました。記事
その「感じ」たものは、水木氏とは無関係なのですが、最近読んだ『神聖喜劇』という、これは小説と漫画の両方を読んで強く感じた何かに、すこし似ておりました。
大西巨人の大著「神聖喜劇」は光文社から出ていたのですが、これには、ただならぬ衝撃を受け、漫画もあるのを知って直ちに読んでしまい、この小説世界を漫画にした力技もまた凄まじいものだと、感激しました。小説の一行一行が、ひとつひとつの絵によって新しく変わったり衝突したりしながら、解きほぐされてゆきます。
旧陸軍新兵訓練場を舞台として展開する驚異的な軍隊用語による対話の渦巻きに、脳ミソがオーバーヒートしそうになります。その一言一葉が、言葉と認識の果てしない戦争であるようにも感じ、制度なるもの自体の暴力性の暴露であるようにも感じました。戦時を舞台にしていますが、現代そのものが抱える思考の崩壊劇を垣間見るようでした。
長いうえに難解です。小説はもちろん、漫画も決して安易な読み進め方が出来ないです。読み切るのは大変だけど、それだけの醍醐味があります。読破、という充足感を漫画に覚えたのも久々でした。
やはり凄い作品だなと思いながら、何故か、水木漫画を読んで感じるような量感というか、莫大なエネルギーに圧倒されていました。戦争というものを生き抜いた人の持つ、あれは特別なエネルギーなのでしょうか。思えば、僕らが享受している平和というものは、戦争を生き抜いた人が身を削って構築した無形の財産なのですから、そういう、この世界とは何か、人間とは何か、という、懸命に考え抜いた力が、文章や漫画にビッシリと張り詰めている、それが共通して響いてくるのかもしれません。
むかし僕は妖怪とか魑魅魍魎を主題に何か作ってみることは出来ませんかと勧めていただいて「グロッタの黎明」(93年、川崎市市民ミュージアム、ダンスと映像とアートインスタレーションによる)という作品を発表したのですが、それは劇場ではなくて、水木しげる氏の監修による「妖怪展」なる展覧会の作品の一つとして美術館で上演したのでした。 公共美術館での長い展示期間、毎週何ステージだったか忘れましたが、とにかく通って踊りましたから、自然、何度も何度も展示を観たのですが、妖怪というのはただ恐ろしいわけでなくて、滑稽さや風刺が渾然一体なので、だんだんと好きになってゆくのを感じておりました。そして、妖怪の背後にある想像力、妖怪なる面白いものを産み出した人間の面白さ・たくましさ・生命パワーが、だんだんと感じられてゆきました。それは実は、妖怪を描き愛し続ける水木氏の生命や人間を尊ぶメッセージなのではないかと思うようになりました。妖怪や魑魅魍魎は、闇の底から人間のことを応援しているように感じたのです。それが、毎回のパフォーマンスを支えてくれた記憶があります。
いろんな記憶を、上記の記事から呼び覚まされながら、あらためて、水木氏に敬意を感じました。
水木氏といえば、あの「ゲゲゲの鬼太郎」。その漫画一話一話に共通して満ちあふれる不思議なエネルギーは、氏ご自身の内部にあるものが絵に物語に現れたのに違いないと思います。だから何度でも読めて、何度読んでも新しいワクワク感がわいてきます。ワクワクすると元気になります。元気をくれるのが、水木氏の妖怪だと思います。戦記をふくめ、氏の漫画の魅力には圧倒されっぱなしで、その底に僕はいつも、何があっても生きてやるぞ、という自立感というか独立感を感じるのです。その強い心が、先の記事に紹介されたわずかな言葉から溢れていて、尊敬の念が湧きました。仕事をもって、家族や友人をもって、毎日を切り盛りしている人の生の言葉でもあると思いました。カミサマや偉人の言葉よりも、やはり、僕は生々しい生きた個人の言葉が好きです。なかでも「私には本当の絶望と言ふものはない(記事より引用)」という言葉には特別な何かを感じました。記事
その「感じ」たものは、水木氏とは無関係なのですが、最近読んだ『神聖喜劇』という、これは小説と漫画の両方を読んで強く感じた何かに、すこし似ておりました。
大西巨人の大著「神聖喜劇」は光文社から出ていたのですが、これには、ただならぬ衝撃を受け、漫画もあるのを知って直ちに読んでしまい、この小説世界を漫画にした力技もまた凄まじいものだと、感激しました。小説の一行一行が、ひとつひとつの絵によって新しく変わったり衝突したりしながら、解きほぐされてゆきます。
旧陸軍新兵訓練場を舞台として展開する驚異的な軍隊用語による対話の渦巻きに、脳ミソがオーバーヒートしそうになります。その一言一葉が、言葉と認識の果てしない戦争であるようにも感じ、制度なるもの自体の暴力性の暴露であるようにも感じました。戦時を舞台にしていますが、現代そのものが抱える思考の崩壊劇を垣間見るようでした。
長いうえに難解です。小説はもちろん、漫画も決して安易な読み進め方が出来ないです。読み切るのは大変だけど、それだけの醍醐味があります。読破、という充足感を漫画に覚えたのも久々でした。
やはり凄い作品だなと思いながら、何故か、水木漫画を読んで感じるような量感というか、莫大なエネルギーに圧倒されていました。戦争というものを生き抜いた人の持つ、あれは特別なエネルギーなのでしょうか。思えば、僕らが享受している平和というものは、戦争を生き抜いた人が身を削って構築した無形の財産なのですから、そういう、この世界とは何か、人間とは何か、という、懸命に考え抜いた力が、文章や漫画にビッシリと張り詰めている、それが共通して響いてくるのかもしれません。
むかし僕は妖怪とか魑魅魍魎を主題に何か作ってみることは出来ませんかと勧めていただいて「グロッタの黎明」(93年、川崎市市民ミュージアム、ダンスと映像とアートインスタレーションによる)という作品を発表したのですが、それは劇場ではなくて、水木しげる氏の監修による「妖怪展」なる展覧会の作品の一つとして美術館で上演したのでした。 公共美術館での長い展示期間、毎週何ステージだったか忘れましたが、とにかく通って踊りましたから、自然、何度も何度も展示を観たのですが、妖怪というのはただ恐ろしいわけでなくて、滑稽さや風刺が渾然一体なので、だんだんと好きになってゆくのを感じておりました。そして、妖怪の背後にある想像力、妖怪なる面白いものを産み出した人間の面白さ・たくましさ・生命パワーが、だんだんと感じられてゆきました。それは実は、妖怪を描き愛し続ける水木氏の生命や人間を尊ぶメッセージなのではないかと思うようになりました。妖怪や魑魅魍魎は、闇の底から人間のことを応援しているように感じたのです。それが、毎回のパフォーマンスを支えてくれた記憶があります。
いろんな記憶を、上記の記事から呼び覚まされながら、あらためて、水木氏に敬意を感じました。