話題のミシェル・アザナビシウス監督の新作を観たが、もう、実に凄い。
フランスとグルジアの合作であるこの映画は、まるでネット上の動画にヒットした時のように始まり視点のジャンプを伴いながら素早く進行する。
1999年チェチェン。イスラム信仰の深い地域。テロ対策・平和維持を名目にロシアが軍事介入。その現場を、この映画は4人の人物の視点から見つめている。
1人は、ロシア軍に両親を殺されそのショックで声を失った9歳の少年。次の1人はその少年を保護しながら紛争解決に奔走するEU職員の女性。もう1人は少年と生き別れ翻弄されながらも自分の言葉を保ち続ける姉。さらに1人はロシア軍に入隊して紛争地に派遣され次第に言葉を失ってゆく19歳の青年。彼らのドラマはそれぞれ他人ごととは思えない。そして彼らを演じる俳優も演技とは思えないほど生々しい。
「特定の紛争に対して政治的なスピーチをしたかったったわけではない、悲劇的な状況に陥った人々に対する
恵まれた人々の無関心を糾弾するつもりもない、、、」と言う監督の言葉を読んだが、完成されたこの作品からは、関わった人たちを突き動かした衝動がおそろしい程に溢れ出ている。いや、観ること自体が世界の一端に関わる行動だということを、久々にハッキリ認識させられたこれは、まさに現在進行形の映画だと僕は思う。素晴らしい映画を鑑賞しながら、その素晴らしさに拍手を送っているこの自分は何者なのか、ふと問わずにはいられない。
誰もが平和を願う。もう殺し合いはゴメンだ。そんな言葉を、当たり前のように繰り返しながら、一体僕らは何をしているのか。反戦、反核、それが当然のモラルと了解した私たちの社会が、より深刻な紛争を連鎖し、放射能に晒されながらなお原発を操っている、その現実が当然二重写しになって思わずにいられないこの映画は、観る人によっては言葉を失うかもしれない。
この映画は、チェチェンのあの時、を舞台にした、言葉の剥奪と再生を巡る映画だと思う。言葉とは何か。魂かもしれないし家かもしれないし人間性かもしれない。そんな事も考えさせられる。
原題は「The search」と、鋭い。
描かれるのは「チェチェンのあの時」だが、それは、コソボの、サラエボの、カンダハルの、バクダッドの、あの時に反射的に読み替えられるだろうし、私たちにとっては、フクシマのあの日、に重ねることも出来なくはないと思う。
私たちが暴力によって言葉を奪われ、奪われた言葉を希望や助け合いによって取り戻してきたはずの、魂の痛みの痕跡を、この映画は呼び覚ましてゆく。そして、誰もが暴力に加担させられる可能性を含んだ現実の苛烈さと、その背景について、この映画から考えずにはいられない。
この時代にこの映画がつくられ公開されて観ている。その事自体がとても重く貴重な事実に思える。
フランスとグルジアの合作であるこの映画は、まるでネット上の動画にヒットした時のように始まり視点のジャンプを伴いながら素早く進行する。
1999年チェチェン。イスラム信仰の深い地域。テロ対策・平和維持を名目にロシアが軍事介入。その現場を、この映画は4人の人物の視点から見つめている。
1人は、ロシア軍に両親を殺されそのショックで声を失った9歳の少年。次の1人はその少年を保護しながら紛争解決に奔走するEU職員の女性。もう1人は少年と生き別れ翻弄されながらも自分の言葉を保ち続ける姉。さらに1人はロシア軍に入隊して紛争地に派遣され次第に言葉を失ってゆく19歳の青年。彼らのドラマはそれぞれ他人ごととは思えない。そして彼らを演じる俳優も演技とは思えないほど生々しい。
「特定の紛争に対して政治的なスピーチをしたかったったわけではない、悲劇的な状況に陥った人々に対する
恵まれた人々の無関心を糾弾するつもりもない、、、」と言う監督の言葉を読んだが、完成されたこの作品からは、関わった人たちを突き動かした衝動がおそろしい程に溢れ出ている。いや、観ること自体が世界の一端に関わる行動だということを、久々にハッキリ認識させられたこれは、まさに現在進行形の映画だと僕は思う。素晴らしい映画を鑑賞しながら、その素晴らしさに拍手を送っているこの自分は何者なのか、ふと問わずにはいられない。
誰もが平和を願う。もう殺し合いはゴメンだ。そんな言葉を、当たり前のように繰り返しながら、一体僕らは何をしているのか。反戦、反核、それが当然のモラルと了解した私たちの社会が、より深刻な紛争を連鎖し、放射能に晒されながらなお原発を操っている、その現実が当然二重写しになって思わずにいられないこの映画は、観る人によっては言葉を失うかもしれない。
この映画は、チェチェンのあの時、を舞台にした、言葉の剥奪と再生を巡る映画だと思う。言葉とは何か。魂かもしれないし家かもしれないし人間性かもしれない。そんな事も考えさせられる。
原題は「The search」と、鋭い。
描かれるのは「チェチェンのあの時」だが、それは、コソボの、サラエボの、カンダハルの、バクダッドの、あの時に反射的に読み替えられるだろうし、私たちにとっては、フクシマのあの日、に重ねることも出来なくはないと思う。
私たちが暴力によって言葉を奪われ、奪われた言葉を希望や助け合いによって取り戻してきたはずの、魂の痛みの痕跡を、この映画は呼び覚ましてゆく。そして、誰もが暴力に加担させられる可能性を含んだ現実の苛烈さと、その背景について、この映画から考えずにはいられない。
この時代にこの映画がつくられ公開されて観ている。その事自体がとても重く貴重な事実に思える。