様々ご感想を拝読しながら、そこに書かれていたなかに舞台そのものへの直接的な言葉とともに添えられていた言葉が、人間の身体そのものに対する思いや、中には身体ばかりでなく時の流れに関することや、光と闇に思うこと、などなど、各位の世界にじむ言葉が沢山あって、学ぶこと多い本番でした。感謝のみでは済まない気持ち。舞台反省以上に、何か眼差しそのものをもっと広く開いてゆく衝動に結びつき始めております。踊り、あるいは、舞台、というものの広さを痛感。舞手の担うべきは何か。そして次は何をと、、、。

以下、断片ながら追想の一部です。

・張り詰めた肉や神経が元に戻るまで、しばらく時間がかかる。作品に同化していた回路が弛み、新しい風が通り始める、そんな時期に、たまたま今回は満開の桜が散って新緑が芽吹く季節が重なった。

命ある花が散り、石や水に落ち、風に運ばれて分解して、無に溶けてゆく。
宇宙が繰り返し示し続ける真実の瞬間。
それを垣間見て、歌や踊りは生まれるのかな、そんな事も思う、これは季節の恵み。

・中世ドイツの神秘主義者ヤコブ・ベーメの書がヒトは自然の一員そして愛なる力がヒトの特性と説く、それを読みながら現在現実の有様かつその現在を成す一要因としての私自身の心根を省みて戦慄する感覚を覚えたのが2012年初冬、ヨーロッパ公演を終え「青より遠い揺らぎ」という作品に取り組んでいる途中だったが、その時から思い温めていた断章が膨らみ、さらに震災や放射能のことへの重なる思い、そして以前から心のなかで気になり続けているシモーヌ・ヴェイユの「真空」という言葉、さらにこの数年感じてる無数の葛藤が混沌するなか今回上演した作品は産まれたが、ここが初動か。まだまだ膨らむ予感多々。一つの出発は自覚して、いま。

・事後、ある人との対話に、あれは原罪と赦しの風景だったのか、という言葉が出てきて、それは希望を主題としたつもりの前作「CHILD OF TREE」に比しての意見だったが、それは反芻を促す力となった。第三者からの言葉の簡潔さに対してこちらは迷宮と混沌を抱えて彷徨い結局は出会う瞬時にこぼれ出る身振りやリズムただそれ以外白紙としか言いようがない。踊りに何を照合し、いかなる物語を心に描くか。それこそ観客の特権だが、深い眼を感じて心揺れ背筋緊張する。
演者が自覚できない無意識下の何かが氏の眼に映ったのか、あるいは、氏の内部にまどろむ存在への思いが踊りの印象を増幅したか。そのような存在論的な視野をも、今後は自覚的に検証して身体に関わってゆけという指導と感じてならない。

・舞台で何を構築しようとしても、肉体はその先を走るし、観客の想像はもっと先を開く。ダンスは瞬時のなかに起こるから、生成を消滅を受け止めながら存在してゆくしかない舞手の「ありかた」が問われる。そんなことを、今作は課題として差し出してきたのではないかと思う。背筋を正す。

・外なる世界にあるものは全て、一つの生命の内にも照応できるのではないか。たとえば人間世界の出来事にしても、それは実は人間一人一人の内面から溢れ出したものが働きあって形成されているのではないか。もしかして私たちの姿は、その姿自体に自然や宇宙の仕組みを解き明かす何かヒントを孕んだ、一種の暗号なのではないか。私たちは世界に関係しながら、私たち自身の姿に秘められた意味を、もっと私たち自身から読み取る必要があるのではないか。他者とわかりあうためには、もっともっと自分自身という何かを噛み砕いて読み解いてゆく必要に迫られているのではないか。
今回の作品を上演したあと、なぜか、そんな考えが巡る。
本番中、幾度となく舞台には暗転が到来した。瞬きのように、呼吸のように、到来する闇と光の明滅のなかで自らの心臓音や客席の呼吸音に聴覚が敏感になったそのなかから身体は何を蠢き出したのか。

いま「私たちは何処から来たのか/何処へ行くのか」という命題を思い出す。ここから何を始めることが出来るか。いま思う。

公演記録
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