ふとよぎる想念の、とりとめない一文、、、。

さきの週末、生まれて初めてというほど沢山の蘭の花に囲まれ生気を精気を吸い込んで、ああ来てよかったと思いながらも、なぜか、これとは別の、花一輪に向き合い背筋を走ったゾクゾクと言うしかない経験を思い出していた。

ある華道家の活けた、あれはラベンダーだった、それも花びらだけが何も無い空間に散らされたものだった。簡素で何の能書きもなかったが、場は自分の溜息のほか何も聞こえないくらいの静まり方で、色もただただ花びらの放つ碧のほかは消えて無くなっていた。

花を置く、ただその行為に大きな違いが生まれるその背景に、何があるのだろうか。

華道を学んだことはないけど、母が少ししていたせいか、空間に生きたものを置く、ということに思い出は多い。
そこに、ふと踊りを重ね合わせたくなることが
、どうにもある。

踊るオドル、と言うが、それ以前に、場所あるいは視野に、カラダをまず置く、という瞬間があって、その瞬間のために、ずいぶん色々な勉強や経験が、僕の場合は必要な気がしてならない。

家のは山村御流だったから、野花を一輪だけ質素に活けるわけだが、山の辺の道あたりに行って得た小さな花を大事に持ち帰っては水盤にそっと置いて、という姿を頻繁に見ていると、なんだか、その命を掬いとるような生花の行為が、星のカケラを拾うような姿に見えてくるのだった。

ダンスと称して、舞台にカラダを乗せる。ついさっきまで普通にささやかに生きていたカラダを、日常という大地から、フツリと切断して、舞台に活ける感じが、なんだか無性にある。

水盤における水のかわりに、舞台には闇が満ちている。
その闇に満ち満ちる可能性みたいなものを吸い上げながら、いけばなの花のようにカラダがリンとした光彩を放てばいいのにな、など、思うのであるがナカナカこれが遠い道と実感して長い。

自然のなかにある花に対して、生花の花は孤愁を深く咲かせるように感じる。

草や虫と戯れながら生きていた安息から断ち切られて静寂な場所に置き直されることで、淋しくなる代わりに、その一輪そのものが有する刹那を発光し始めるような気がする。

そのような感触が、普通は色々なものと一緒にいるカラダにも、舞台という真空というか別次元というか、とにかく生活から切断された、しんとした空虚に置かれた時に、カラダはカラダだけの刹那を発光して、肉や骨の奥の奥にある命の声のような響きにだけ、震え始めるような気がしてならない。

さて、、、。