時の重みについて、ふと思う。

舞台、、、。

きのう。新作「サイレントシグナルズ」初の通し稽古となった。
この作品は長くかかった。もう一年半くらい前だったか最初のイメージは。
3作(いちはらアートミックス/その血をきけ/CHILD OF TREE)を上演にもちこみつつ、脳裏に浮かぶまま多くの断片を身体に映し、壊し、また立ち上げ、これは何とか作品にと、本格的に制作を始め劇場と連動したのは前作上演後、秋。
いま、やっと、、、。

「初通し」を迎えたからか、稽古ながら勝負感も。

3-10東京大空襲70年、震災4年目の3-11。
そんなタイミングのなかで、空気中に無数の人があって身体の奥の方をじっと見つめられているような感覚があった。
本番に向けて、ここからだが、もう何ものかに見つめられているような気持になる。

踊りは本番で踊りとなる。
稽古の堆積をへて、生身の舞手と生身の見手の関係のなかで生まれるもの、それが踊りと認識している。
しかし、生きている者同士が一期一会を果たす場には、生きている者が記憶している多くの死者の視線や、生きている者が予感する多くの未誕生の子どもたちの視線も、また劇場には呼び込まれるのではないかと、思っている。

遠いむかし、踊りには、捧げられる身体、という意味合いもあったらしいけれど、
それは生きている者だけでなく想像できる全ての存在に対して身を捧げる、ということだったのではないかと思うし、
それはいまこの21世紀でも喪失されたわけではない、と、少し思う。

太陽や月に捧げられる肉体、捧げものとして踊る人の姿、それを見つめることが、どれほど大事にされたのか。
初期の作品『太陽肛門』以来の懸案ながら、踊りとサクリファイスにまつわることは、今回の作品ではしっかり意識しておきたい。

クラス、、、。

きのうは西荻ほびっと村学校のクラス日。身体感覚を高めるレッスンに集中した。
とりわけ、眼の働きによって、どのようにカラダの運動が変わるか、心理はイメージはどんなふうに影響を受けやすいか、そこに焦点をあて、注意力と客観性を保つ練習も兼ねることができた。良い稽古だったとの言葉がうれしかった。
丁寧に動く、全身に意識を配る。
空間や時間や、その場に居る人にも意識をひろげてゆく。
眼を開いているときに対して、眼を閉じているときの感覚は、どうか。
ルドンに「閉じた眼」という名作があるが、あの絵に描かれた人の姿は求心的に踊る人にも重なる。

レッスンの合間には、自然に震災や空襲にまつわる言葉が交わされた。
そこからメメント・モリ(死を想う)ということについて会話は進展した。
限られた時間の中で、たくさん話すことは出来なかったが、ひとりひとりの人が蓄えている生と死への思いが、稽古場の空気を熱した感があった。
踊る時間は命を想う時間でもあるということを、あらためて感じた。

戦争の時代が始まっている、という危機感がある。
原発事故からの汚染水は毎日300トンもという。
核家族や個人主義の生活のなか、死が身近でなくなったと言うが、さて本当はどうなのか。

きのう、きょう、あした。

いま、どんな「あした」を迎えるのか、迎えたいのか、真剣に考え合う時代に僕らは居ると思う。

(写真は、2011年夏の舞台美術)