とても激しい運動の渦中にあってもどこか静かで透明で、
とても停止した
絵のような時間の流れにあっても熱を帯びて発光している。

そんな人体を垣間見る瞬間を、踊りのなかで提示できないものか、、、。

些細な一喜一憂のかたわら、とてつもない争いが激化してゆく様相があり、人の世が想像を絶するほど広く感じるなかで、「サイレントシグナルズ」という題名を今春の新作につけたその背景には、踊りを通じて、人間という生命体の姿を、探し直してみたい、そんな欲望があるのかなと、稽古を進めながら思う。

国籍もない、民族もない、性別もなく、名前さえない、ただそこはかとなくしかし確かにそれは人である、というような身体の遠景。

純粋身体。

見たことがあるわけではない。しかし、いや、だから、そんな身体風景を夢想するのだろうか。

私たちは何ものか、
はて、
人とはどんな生命体なのか。

以前の作品『青より遠い揺らぎ』の制作中、「ヘシュキア」という古い修道士の瞑想法があるのを知って、それから色々と夢想しては試す日が増えた。

「ヘシュキア」というものは身体を激しく動かすことで雑念を払い除け、世俗の心配事をいったん心から取り除いて、神様と一体になるというものだったという。神様とは普遍の原理のことだとすれば、これは、動けるだけ動き尽くして自分の生命の声をキキ直して、いろんなモノコトを受け入れなおしてみる。何も思えないほど肉体を燃やして、空っぽの器になってみるということに思える。

教会の深い闇は、かすかな光を鋭く明るくする。沈黙は、かすかな音を正確に捉えて長い残響に還す。

そのようななかで行なわれた激しい魂振りの姿は、いかに美しい光景だったか、計り知れない。いまでは、想像のなかにしか存在しない光景を思い描きながら振付を行なうこと再び。

時間。
空白。
沈黙。

それらそのものに還ってゆく身体。

内部に渦巻くあらゆるものを「ほどき」、
無に「むすび」なおすこと。

踊り。
ダンス。
あらゆる言葉から離脱すること。

「脱創造」という言葉はシモーヌ・ヴェイユの言葉だが、彼女は「無を目指す人間の働き」を指して、しばしばメモに書く。

無を目指す人間の働き。

なぜか気になる。

(本番3週間前、創作ヤマ場を迎えつつの覚え書きでした。)

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