刻々と時は通り過ぎてゆく。
少しづつ、ゆっくりと何かが変化してゆく。
そしていつしか時代というものが、形作られてゆく。
僕らがどんな時を生きているのか、僕らがどんな時代を作っているのか。
気がついた時には、もう、ひとつの時代は過ぎてしまって全く別の変化が始まっていて、僕らは新しい僕ら自身を生き始めているから、意外と時代というものは当事者には見えにくいのかもしれない。
しかし、顧みれば、ひとつの生命が生まれ育ち死を迎えるように、時代なるものにも生死があって、その生命力と僕らひとりひとりは分かち難く結びついているのだな、なんて、はっと、そんなことに思い及ぶような展覧会を見ました。
練馬区美の「あしたのジョー、の時代展」。
地味だけど味わい深くて、作品のインパクトを味わうというより、ある時代のもっていた空気感を少し醒めた眼で受け止め直す、こんな企画もなかなか粋だなと思いました。
漫画「あしたのジョー」の原画を軸に、寺山修司、赤瀬川原平、横尾忠則、土方巽、、、。
昭和40年代を振り返りながら、昭和の肉体感覚が、感じられるのでした。
ちばてつや氏の「当時の日本の国全体が高度成長という熱にうかされてある意味、不思議な空気感をひしひしと感じていた」という言葉、そして土方巽の「時代が肉体についてきた」という言葉が印象的。
僕自身その頃は小学生だったから、やはり覚えている物やCMや風景が次々に出てくるわけですが、懐かしさというよりは、その頃の大人たち、つまりは父や母の気持ちを垣間見るような感覚でした。
大学生くらいになって凄い凄いと思った個々の芸術が、少し違う角度から見えました。圧倒されながらも違和感を感じ、尊敬と混ざり合うような反抗を感じていた何か。
自分の内面にあったのは、すでに現在の卵のようなものだったのかな、とも思いました。
「あしたのジョー」は、もういない。
そこから、僕らは何かを始めようとしてきたんだと思います。
まだ形にはなっていないけれど、、、。
天井桟敷、暗黒舞踏、フルクサス、それらの放つ、強い残光と余韻のなかで、自分自身は何を考え何を生成しようとしてきたのか。
そんな事も思い直すのでした。
ps:展覧会では、土方巽の「肉体の叛乱」が大きくあつかわれていました。ネットで見るのと違い、大きなスクリーンのなかで踊る土方巽の姿に、その品格とデリケートさに感じ入りました。
舞踏という言葉とは全く別に、ひとりの人間のカラダが何と美しく輝いて、僕には見えて仕方ありません。
少しづつ、ゆっくりと何かが変化してゆく。
そしていつしか時代というものが、形作られてゆく。
僕らがどんな時を生きているのか、僕らがどんな時代を作っているのか。
気がついた時には、もう、ひとつの時代は過ぎてしまって全く別の変化が始まっていて、僕らは新しい僕ら自身を生き始めているから、意外と時代というものは当事者には見えにくいのかもしれない。
しかし、顧みれば、ひとつの生命が生まれ育ち死を迎えるように、時代なるものにも生死があって、その生命力と僕らひとりひとりは分かち難く結びついているのだな、なんて、はっと、そんなことに思い及ぶような展覧会を見ました。
練馬区美の「あしたのジョー、の時代展」。
地味だけど味わい深くて、作品のインパクトを味わうというより、ある時代のもっていた空気感を少し醒めた眼で受け止め直す、こんな企画もなかなか粋だなと思いました。
漫画「あしたのジョー」の原画を軸に、寺山修司、赤瀬川原平、横尾忠則、土方巽、、、。
昭和40年代を振り返りながら、昭和の肉体感覚が、感じられるのでした。
ちばてつや氏の「当時の日本の国全体が高度成長という熱にうかされてある意味、不思議な空気感をひしひしと感じていた」という言葉、そして土方巽の「時代が肉体についてきた」という言葉が印象的。
僕自身その頃は小学生だったから、やはり覚えている物やCMや風景が次々に出てくるわけですが、懐かしさというよりは、その頃の大人たち、つまりは父や母の気持ちを垣間見るような感覚でした。
大学生くらいになって凄い凄いと思った個々の芸術が、少し違う角度から見えました。圧倒されながらも違和感を感じ、尊敬と混ざり合うような反抗を感じていた何か。
自分の内面にあったのは、すでに現在の卵のようなものだったのかな、とも思いました。
「あしたのジョー」は、もういない。
そこから、僕らは何かを始めようとしてきたんだと思います。
まだ形にはなっていないけれど、、、。
天井桟敷、暗黒舞踏、フルクサス、それらの放つ、強い残光と余韻のなかで、自分自身は何を考え何を生成しようとしてきたのか。
そんな事も思い直すのでした。
ps:展覧会では、土方巽の「肉体の叛乱」が大きくあつかわれていました。ネットで見るのと違い、大きなスクリーンのなかで踊る土方巽の姿に、その品格とデリケートさに感じ入りました。
舞踏という言葉とは全く別に、ひとりの人間のカラダが何と美しく輝いて、僕には見えて仕方ありません。