他人の言葉に感化されるのは御免だが、それでも素晴らしい言葉をみつけたときは、いさぎよく負けたぁと思える。そこから始まるものが必ずある。それでいいと思う。
「画家の全意思は沈黙していなければならない。
画家は自らの内で先入主の声をすっかり黙らさなければいけない。
忘れて、忘れて、沈黙して、完全なこだまになること。
その時、画家の感光板に、風景全体が、記述される。」
さすがセザンヌの言葉。
これほど納得できる言葉は、滅多に無い。負けたなんておこがましいが、たじたじである。
ゼロ身体。なる妄想を抱いている身としては絶句。
沈黙のなかの沈黙。
忘れて忘れて、すべて映るがままの記述身体か。
たとえば『感光体』とでも呼べる身体があるならば、
そんな境地に、立ちたい。いかに、ここから。
10月上演の新作『CHILD OF TREE』の苦境がてっぺんにきた時、この言葉に出会い、稽古がまた動き出した。
志村ふくみ先生の本にご自身のノート写真あって可愛い花の絵と一緒に記されていた。
先生の本や昔教わった頃のノートを見つめていると、創作のなかで荒ぶる何かがすっと鎮まり、我に返れる。故郷に還るかわりに、見つめる。
その書は主としてドストィエフスキー論だが、先生の言葉を通すことで激しい求道精神が浮き彫りにされて、それは酷寒のペテルブルクに降る雪の音なき音を通奏低音にした美の建築教程となっている。その書にふと挿まれた草花のスケッチ、そこに、セザンヌの沈黙が安らう。なんて素敵な、なんて苛烈な静かさ。
染織家として皆様ご存知。修行時代に何度も稽古場などに来て下さってシュタイナー哲学の指導をいただいた。長くお会い出来ていない今も、心離れること全く無い。心底尊敬できる先生の一人。90歳とうに過ぎて、ますます明るく強く仕事をされてゆく。まさに麗人と思う。
草木より生ずる色彩の神秘から、糸紡ぎの働く肉体の日々のこと。身にまとう着物から、色や霊魂や宇宙の言葉を聴きとるような心の開き方を、先生のお話や仕草や表情から、いつしか感じていた。人は着物を通じて人を呼吸する、その基本概念を感じて衝撃を受けた。つくる、ことで人は人を紡いでゆくのか、とも感じていた。
命に永遠はないから命は何かを紡いでゆく。そのことを思えば、明日また踊れる。
上のセザンヌの言葉をみつけて、あらためて、感謝の思い湧く。
「画家の全意思は沈黙していなければならない。
画家は自らの内で先入主の声をすっかり黙らさなければいけない。
忘れて、忘れて、沈黙して、完全なこだまになること。
その時、画家の感光板に、風景全体が、記述される。」
さすがセザンヌの言葉。
これほど納得できる言葉は、滅多に無い。負けたなんておこがましいが、たじたじである。
ゼロ身体。なる妄想を抱いている身としては絶句。
沈黙のなかの沈黙。
忘れて忘れて、すべて映るがままの記述身体か。
たとえば『感光体』とでも呼べる身体があるならば、
そんな境地に、立ちたい。いかに、ここから。
10月上演の新作『CHILD OF TREE』の苦境がてっぺんにきた時、この言葉に出会い、稽古がまた動き出した。
志村ふくみ先生の本にご自身のノート写真あって可愛い花の絵と一緒に記されていた。
先生の本や昔教わった頃のノートを見つめていると、創作のなかで荒ぶる何かがすっと鎮まり、我に返れる。故郷に還るかわりに、見つめる。
その書は主としてドストィエフスキー論だが、先生の言葉を通すことで激しい求道精神が浮き彫りにされて、それは酷寒のペテルブルクに降る雪の音なき音を通奏低音にした美の建築教程となっている。その書にふと挿まれた草花のスケッチ、そこに、セザンヌの沈黙が安らう。なんて素敵な、なんて苛烈な静かさ。
染織家として皆様ご存知。修行時代に何度も稽古場などに来て下さってシュタイナー哲学の指導をいただいた。長くお会い出来ていない今も、心離れること全く無い。心底尊敬できる先生の一人。90歳とうに過ぎて、ますます明るく強く仕事をされてゆく。まさに麗人と思う。
草木より生ずる色彩の神秘から、糸紡ぎの働く肉体の日々のこと。身にまとう着物から、色や霊魂や宇宙の言葉を聴きとるような心の開き方を、先生のお話や仕草や表情から、いつしか感じていた。人は着物を通じて人を呼吸する、その基本概念を感じて衝撃を受けた。つくる、ことで人は人を紡いでゆくのか、とも感じていた。
命に永遠はないから命は何かを紡いでゆく。そのことを思えば、明日また踊れる。
上のセザンヌの言葉をみつけて、あらためて、感謝の思い湧く。