パールバックの小説「神の火を制御せよ原爆をつくった人びと」は期待が大きすぎたのか、少し残念な読後感。確かに興味深い内容なのに、やはり原爆に対する認識の違いがちょっとショックなくらいだった。広島、長崎、ビキニ、福島。原爆と原子力と、それらに関わる無数のチカラ。それらへの怒りや哀しみや祈りやジレンマの重量が、この作家には一体どうなんだろう、と、つい思ってしまった。日本の作家以外にもソンタグやデュラスやチョムスキーの言葉には、響くものがあったが、パール・バックの言葉は何かが違っていた。

別の話。

大した期待なく、とりあえず録画しておいたテレビ番組が、なかなか凄い内容だった。
NHKで放送した「ヒトラー・権力掌握への道」フランスの制作。カラー映像がかなりを占める。
若いヒトラーがどのようにして危うい考えを抱き、仲間を集め、金を集め、組織を作っていったのか。その間、一般の人は何に興味をもっていたのか。政治の危うい変化を語る文化人は沢山いたのに、なぜ無関心だったのか。選挙のたびに政治家に失望してゆく様子、なぜか楽天的になっていった流行。そして、どのようなキッカケで全体主義や人種政策や戦争に巻き込まれていったのか。気付いた人々は、どうしていたのか。ドイツ国内での共産主義者や資本家の関係、アメリカ企業からの資金調達、秘密結社からの支援、仲間との結託や分裂や排除、などなど、それら一つ一つが、僕は見たこともない記録映像で検証されてゆく。

平和国家ワイマールが知らず知らず緩やかに壊れてナチ帝国に変貌した、1910年代から1930年代の20数年間。

現在にどこか重なって見えた。21世紀になって、世界の雰囲気が変わり始め、いま2016年。

戦争を知らない子どもたち、という歌をききながら育てられた僕たちは、もう、戦争を知らない、とは言えない大人になっている。それがいつ来てもおかしくない、という、漠たる心配が、心のどこかにある。
そんな感覚からか、このヒトラー台頭プロセスを検証する映像群は、改めて衝撃だった。

別の話。

広島平和公園の、あの真っ直ぐにのびる道は、緩やかに傾斜している。道にボールを置けば、それは静かに転がり、やがて慰霊碑に辿りつく、そして、慰霊碑のアーチからは爆心地原爆ドームに正面から対峙することになる。その構造は、何を語り続けているのか。緩やかな坂道を下っていきながら、霊魂と歴史に遭遇しながら、いまいかなる時を紡いでいくのか。

もうすぐ八月が終わる。蝉の声とともに遠ざかる夏。