踊るカラダは、たっぷりと息をしている。やわらかく、デリケートに。

レッスンをしていて、この頃とてもメンバーの踊る姿が、ていねいで繊細になってきた感触がある。呼吸感がある。身も心も柔らかくなってきたんだと思う。

なんか良かったね~、と声をかけたりすると、ご本人たちは静かに笑ってくださるが、
僕としてはホンネである。教えながら内心感動している事も、実はたくさんある。

特定の誰かさんが、というより、波が伝わるようにそれぞれが変容してゆく。

カラダは一個一個なのに、何だか不思議だ。

一緒の時間を共にしているからだろうか。
踊る、という事が、そもそも共振のわざだからなのか。

お喋りとか余りしないでも知らず知らず、快とか爽とか、良い感触を共有しているみたいに感じる。

動きながら音楽や言葉を味わう。
振りを、かたちを、感じながら動く。
感じる事を外に解放して自由に動いてみる。
大地を感じて歩いてみる。

言い出すとキリがないが、踊りの稽古は、感じる時間でもある。
感じること、受け止め、受け入れること。

受け入れること、は、柔らかくなること、に等しい。
柔らかくなってゆく。
それはボディだけじゃなくて、緊張のほぐし方、アタマの切り替え方、いろんなことに広がると思う。

僕の場合は、アタマが固くなっているときは必ず体全体にそれが伝わる、こわばった動きになる。作品づくりの時にも、アタマがほぐれないと、いい感じの動きが出ない。

こわばりは怖ばり、何か壊されるのが怖いのだろう、ガンバッているけれど頑なな身体。ガンバる、は、我を張る、に、どこか似た響きだなと時々思う。
もちろんそれがなさすぎると、へなへなであるから、頼りない、だらしない、掴みどころ拠り所がない身体だ。少しは我がないと他と関わりようが無くなる。
ちょっと我を意識しつつも、いつでも我を崩して他と交わり混ざるアソビ心地。

柔らかさは固さと関わりながら、しなやかさを生む。しなやかさは、強さと弱さの戯れに宿る。

踊ることは関わること、と言っても良いと思う。
関わりは遊びでもあり、交わりでもある。

何と関わるかは自由・無限。

さぁ、きょうは何と関わろうかな、と思うだけでもカラダは少しほぐれてゆく。
稽古は、そんな対話の習慣を、カラダと自分自身に与えてくれる。
胸いっぱい息をするように。