8月9日でなくとも、なぜだろう、被爆マリアの図像が、しばしば心に浮かんでは消えることが、ある。
こちらをじっと見つめられているような感覚で・・・。

焼け失われて真っ黒な闇をたたえるあの御眼の奥に、とてつもない涙の海が拡がっているようだ。

世界の崩落を見てしまった眼は、こんなにも激しい黒をたたえるのか、とも思う。
じっとこちらを見つめておられるようにも、感じる。

被爆マリア像を初めて知ったのは、たしか小学5年あたり。体験したことのない畏怖だった。

原爆は、よりにもよって、このマリア像の上で炸裂した。と知り、僕にはそのことがさらにショックだった。
広島からたった3日の後に、こんどは、神様の場所に。

浦上天主堂は街の中心からも兵器工場のある海辺からも離れた山の中だ。なぜ長崎に、なぜ教会の上空に、最も残虐な殺戮兵器が、人類史を大きく変えてしまう「核」が・・・。

そして1週間、日本が敗戦を迎えた8月15日は、キリスト教の大祝日「聖母被昇天日」にあたる。

あのとき、聖母は、どんな思いでいらしたか。
そして68年のいまを、どんな思いで見つめていられるのだろうか。