三月になった。
三月は土方巽さんの生誕月でもある。
氏の舞台を観ていなかったら、いま僕はこんなに踊っていただろうか。
もう晩年だった。眼もくらむような闇に舞手の白い肉体が走った、あの衝撃はいままだ生々しい。黒い場所に黒い舞台。しゃんと鈴音そして輝いていた裸体。
ときおり、はたと思い出す舞台。
その一番はずっと土方巽のままだ。
他といえば、ポーランドのカントール、そして白黒フィルムで観たノイエタンツそれは100年前の僧形の舞手、ハラルド・クロイツベルグ。
いずれの人も、あまりにも違うが共通のものは磁場。その渦。
存在感、渾然としたカオスが噴出するような力、緊迫感。
意味などわからなかった。
わかりたくなんかなるまえに、胸いっぱいなのだから。
カントールのあまりに複雑、しかし伝わってくる異様な力は理解など越えてじかに震わせられる。演劇と言われてもダンスに見える。
「死の教室」を観たのは高校の終わりころ、それ以来、最後の「私は二度と帰って来ない」まで、結局は来日の度に観ていた。いつも舞台のはじっこに、その人は立っていた。この人を目撃しておそらく僕の中で踊りは、ただの習い事から別のものに変わってしまったのだと思う。
偉大な丸坊主のクロイツベルグはナマで見ることが出来ない昔の人、往年のドイツ表現主義ダンス名舞踊手だ。白黒の映画で見た、ただ一回。もう僕は大人になっていたが、その一回が焼き付いてしまった。舞台一面に広がるような下半身の軌跡は竜巻を逆さにしたようで、そのなかから背筋がすらりと伸びた。衣裳はなぜか、真っ赤に見えた、白黒映画なのだから想像の色、しかしあれは確かに赤かったと、記憶は訂正できないまま今に至る。
思えば一回の舞台がずっと心に残って心を広げ続けている。
舞台をするそのとき、いつも、そのことを思う。
三月になった。
あたたかさがかえってきた。
あの日3.11を思い出せば、しかし・・・。
これはひとつの十字架かもしれないけれど。
しかし、もう始まっている新しい道は夜明けに開かれている。
未明の闇に、眼を凝らし、耳を澄ます。
出発しよう。
さて月末のソロ公演にむけて、いよいよピーク。
今回は変容し、可能性を開いてゆく力をとの思いから、2回のステージ。
からだ、からだ、からだ。踊っても踊っても納得するわけないこの時期。
どのような着地を果たすか。
ソロ公演HP
三月は土方巽さんの生誕月でもある。
氏の舞台を観ていなかったら、いま僕はこんなに踊っていただろうか。
もう晩年だった。眼もくらむような闇に舞手の白い肉体が走った、あの衝撃はいままだ生々しい。黒い場所に黒い舞台。しゃんと鈴音そして輝いていた裸体。
ときおり、はたと思い出す舞台。
その一番はずっと土方巽のままだ。
他といえば、ポーランドのカントール、そして白黒フィルムで観たノイエタンツそれは100年前の僧形の舞手、ハラルド・クロイツベルグ。
いずれの人も、あまりにも違うが共通のものは磁場。その渦。
存在感、渾然としたカオスが噴出するような力、緊迫感。
意味などわからなかった。
わかりたくなんかなるまえに、胸いっぱいなのだから。
カントールのあまりに複雑、しかし伝わってくる異様な力は理解など越えてじかに震わせられる。演劇と言われてもダンスに見える。
「死の教室」を観たのは高校の終わりころ、それ以来、最後の「私は二度と帰って来ない」まで、結局は来日の度に観ていた。いつも舞台のはじっこに、その人は立っていた。この人を目撃しておそらく僕の中で踊りは、ただの習い事から別のものに変わってしまったのだと思う。
偉大な丸坊主のクロイツベルグはナマで見ることが出来ない昔の人、往年のドイツ表現主義ダンス名舞踊手だ。白黒の映画で見た、ただ一回。もう僕は大人になっていたが、その一回が焼き付いてしまった。舞台一面に広がるような下半身の軌跡は竜巻を逆さにしたようで、そのなかから背筋がすらりと伸びた。衣裳はなぜか、真っ赤に見えた、白黒映画なのだから想像の色、しかしあれは確かに赤かったと、記憶は訂正できないまま今に至る。
思えば一回の舞台がずっと心に残って心を広げ続けている。
舞台をするそのとき、いつも、そのことを思う。
三月になった。
あたたかさがかえってきた。
あの日3.11を思い出せば、しかし・・・。
これはひとつの十字架かもしれないけれど。
しかし、もう始まっている新しい道は夜明けに開かれている。
未明の闇に、眼を凝らし、耳を澄ます。
出発しよう。
さて月末のソロ公演にむけて、いよいよピーク。
今回は変容し、可能性を開いてゆく力をとの思いから、2回のステージ。
からだ、からだ、からだ。踊っても踊っても納得するわけないこの時期。
どのような着地を果たすか。
ソロ公演HP