違和感を突付ける・・・。
樂吉左衛門氏の、そんな言葉を耳にして、襟を正した。NHKの番組で氏のことが特集されていて、そこで非常にピンときたのが、この言葉だった。
(僕はちょうど新しいソロ作品の骨格が見えそうな時期で稽古は最初のヤマ。この時期に出会うコトバは大きい。)
氏の器は、あこがれのひとつ。お茶碗であるけれど、それは心を注ぐための器のようでもあり、彫刻作品そのものにも感じられる。ろくろではなく、手で直接に造形されてゆく過程をつぶさに捉えた映像は息をのんだ。気合いのこもった制作風景のなかで、語られていた言葉の中に、この、違和感、というコトバが素敵に響いた。
偶然、僕が先日に鎌倉の横浜国大附属小で踊ったダンスについてのコメントをみつけて、そこに、パフォーマンスを通じてひとつの身体が起した「違和感」が教育にとっては非常に大事なのだと、好意をあらわしてくださっていて(記事)、コレはどういうことかなと興味を持っていた矢先の放送だった。
アートがもたらす「違和感」。
これを初めて体験したのは、僕の場合、ゴヤの黒い絵と呼ばれる作品群で、なかでもとりわけ鮮烈だったのは「わが子を喰うサトゥルヌス」の絵。小学生だった。父に見せられたのだが、その日の情景を今でも憶えている。そして、この絵のもつ(主題ではなく)独特の闇の深さに、いまも戦慄し、自分が知り得ない世界がこの世に多くあることを、この絵を見る度に思う。
単純に共感できるものではなく、解けない暗号のように心にひっかかってやまない、まさに「違和感」のはたらきが、ゴヤによって初体験された。
「違和感」というのは緊張でもある。マイナスイメージをも覚悟したうえでないと出せない。けれど、それは個が個としての個性を発揮する以上、他者との間に必然的に出てくるエネルギーの関係かもしれない。
これを、恐れずにきっちり担って出し切っていく、というのは、やはり表現(ほんとは表現というコトバは好きではないけれど・・・)の根っこなのではないかと、あらためて思う。
強烈な違和感を堂々と差し出されたとき、やはり一瞬たじろぐ。反発を感じたりさえする。けれど、心のなかで、自分は何に接したのだろうか、あれは何だったんだろうか、と、反芻が始まる。温存していた自分の世界に、きしりと裂け目が走る。脱皮の始まりのように・・・。
樂吉左衛門氏の器や活動には、やはり、ぐっとひっかかる生々しい質感があって、あこがれている。
しんとした静けさなのに、するどく問いを突付けてくるような違和感。小さな茶碗ひとつから充満するエネルギーの強さ。
作品は、やはり、それをつくる人あってのもの。その芯は自分なるものを担い切る意識か。いや、それは、自分自身のみならず他者への信頼あって初めて出来ることなのではと、思う。違和感を通じてこそ結ばれてゆく関係というのが、確かにあるからだ。
違和感を突付ける・・・。
この鋭いコトバの裏には、しなやかな思考と他者の心への深いところでの信頼があるのではないかと思う。違和感を差し出せるのは、共感の証しでもあるのではないだろうか。
さて、
一歩進んで踏み込んでみたい。
_______________________
【次のダンス公演】
2013年3月29日(金)~30日(土)
櫻井郁也ダンスソロ新作公演
東京中野planB(共催)
タイトルや内容詳細は近日このブログにて発表いたします。
樂吉左衛門氏の、そんな言葉を耳にして、襟を正した。NHKの番組で氏のことが特集されていて、そこで非常にピンときたのが、この言葉だった。
(僕はちょうど新しいソロ作品の骨格が見えそうな時期で稽古は最初のヤマ。この時期に出会うコトバは大きい。)
氏の器は、あこがれのひとつ。お茶碗であるけれど、それは心を注ぐための器のようでもあり、彫刻作品そのものにも感じられる。ろくろではなく、手で直接に造形されてゆく過程をつぶさに捉えた映像は息をのんだ。気合いのこもった制作風景のなかで、語られていた言葉の中に、この、違和感、というコトバが素敵に響いた。
偶然、僕が先日に鎌倉の横浜国大附属小で踊ったダンスについてのコメントをみつけて、そこに、パフォーマンスを通じてひとつの身体が起した「違和感」が教育にとっては非常に大事なのだと、好意をあらわしてくださっていて(記事)、コレはどういうことかなと興味を持っていた矢先の放送だった。
アートがもたらす「違和感」。
これを初めて体験したのは、僕の場合、ゴヤの黒い絵と呼ばれる作品群で、なかでもとりわけ鮮烈だったのは「わが子を喰うサトゥルヌス」の絵。小学生だった。父に見せられたのだが、その日の情景を今でも憶えている。そして、この絵のもつ(主題ではなく)独特の闇の深さに、いまも戦慄し、自分が知り得ない世界がこの世に多くあることを、この絵を見る度に思う。
単純に共感できるものではなく、解けない暗号のように心にひっかかってやまない、まさに「違和感」のはたらきが、ゴヤによって初体験された。
「違和感」というのは緊張でもある。マイナスイメージをも覚悟したうえでないと出せない。けれど、それは個が個としての個性を発揮する以上、他者との間に必然的に出てくるエネルギーの関係かもしれない。
これを、恐れずにきっちり担って出し切っていく、というのは、やはり表現(ほんとは表現というコトバは好きではないけれど・・・)の根っこなのではないかと、あらためて思う。
強烈な違和感を堂々と差し出されたとき、やはり一瞬たじろぐ。反発を感じたりさえする。けれど、心のなかで、自分は何に接したのだろうか、あれは何だったんだろうか、と、反芻が始まる。温存していた自分の世界に、きしりと裂け目が走る。脱皮の始まりのように・・・。
樂吉左衛門氏の器や活動には、やはり、ぐっとひっかかる生々しい質感があって、あこがれている。
しんとした静けさなのに、するどく問いを突付けてくるような違和感。小さな茶碗ひとつから充満するエネルギーの強さ。
作品は、やはり、それをつくる人あってのもの。その芯は自分なるものを担い切る意識か。いや、それは、自分自身のみならず他者への信頼あって初めて出来ることなのではと、思う。違和感を通じてこそ結ばれてゆく関係というのが、確かにあるからだ。
違和感を突付ける・・・。
この鋭いコトバの裏には、しなやかな思考と他者の心への深いところでの信頼があるのではないかと思う。違和感を差し出せるのは、共感の証しでもあるのではないだろうか。
さて、
一歩進んで踏み込んでみたい。
_______________________
【次のダンス公演】
2013年3月29日(金)~30日(土)
櫻井郁也ダンスソロ新作公演
東京中野planB(共催)
タイトルや内容詳細は近日このブログにて発表いたします。