今日はコンテンポラリーダンスの話。これは、さしずめ自由奔放な踊り。
練習もレッスンもダンサーによって千差万別だが、みんな共通するのは定まったスタイルとか方法にダンスを押し込めないこと、自分の体と心に正面から向き合ってオリジナルの踊りを模索してゆくことだと思います。

僕の場合、自分の練習ではひたすら動きたおす。めくらめっぽう動きたおす。理論の前にまず「量」です。
あるときは、からだの仕組みをたしかめるように。これって「踊り」だな、という直感がくるまで。
あるときは、倒れそうになるまで体と精神力を試すように。あるときは無性に笑いがこみ上げてきたり無性に悲しみがわき出したりすることもありますが、体の運動が脳ミソや心の栓をスポッと抜いてくれるんでしょうか。
そして、考えたおす。あれっ、さっきのあの体験って、どういうことだったんだろう?って。
悩むわけじゃないですよ、考えるってのも戯れですから、面白い。
力学のこと、体の構造のこと、生理のこと、わきでる感情や欲望にまつわるあれこれ、いま生きていてやがて死んでしまうこの小さな自分について、いまこの世界のこと、歓びや哀しみのこと、エトセトラエトセトラ。
いろんな想念妄想反省予感がアタマのなかでタカタカ遊ぶ。
その振動がまたカラダに返ってきて動きたくなる。
そんな繰り返し、そして、節目節目で精一杯の答えをだしながら人と関わってゆく。また動く。
それが作品やステージに結びつく。
新たな発想やテクニックに結びつく。
レッスンに結びつく。
コミュニケーションに結びつく。
いま、ここ、という地点での結果であり新たな対話の始まり。そんなキッカケをダンスの練習は僕に与えてくれます。
やめられません。

毎週金曜、ダンスクラスのレッスンがあるんですが、ここでもまず動いて感じる、動いて解放する、動いてコミュニケートする。そして会話する。そして考えあう。そしてまた動く。繰り返しながら、すこしずつ、振付けを生み出し、それをわたし、また壊して、また自由運動にもどして、また新しい振付けが生まれて。その過程が、静かな熱と活気を生んでゆく。
レッスンで大事にするのは、ひとりひとりがカラダを通して等身大の自分を探求するようガイダンスすること。
素直に率直に。夢中になって動くとカラダには本来のエネルギーが流れ始めるのでしょうか。互いに流し合うエネルギーが作用しあって新しい波を生み、またそれを呼吸して。息の交感、エネルギーの連鎖、イメージのひろがり。踊っているひとりひとりの姿・・・。素敵な時間だと思います。ダンスを習ったことがない方も自然に入り込める雰囲気が気持ちいい。学びのオイリュトミー、気付きとケアの基礎クラス、そして、ダンスクラスは解放とコミュニケートの時間。

きのうのダンスクラスはとても良かった。
新しいメンバーもペースが出てきた、仕事が忙しかった人も出てこれるようになり、さらに以前のメンバーが応援に来てくれたりして、雰囲気が華やいだ。雰囲気がいいとカラダも生き生きしてくる。人は人を励ます力をもっている。ダンスでは、静かにだまっていても、場にいるだけで、人は何かの役割りを果たす。歌のように、風のように。カラダの動きを互いにさらけ出しあうのは、受け入れ合うことに等しい。ダンスそのものもよかった。練習してきた振付がいつのまにか染み込んで、色んな表情が出てきた。僕は振付するとき、踊る人へのプレゼントとして考えぬく。2ヶ月後、3ヶ月後、これを踊れるようになった時に、少しでも幸せを感じてほしいと思い、ひとりひとりの顔を思いながら振付を練る。振付の「振り」は魂振の「振り」、フレー、フレー、の「振り」である。動きの制約ではなくて、いらぬ迷いを吹っ切るための仕組み。だから細かいことはうるさく言わない。シーズンの節目にはもう自由さが宿ってどんどん変化してゆく、楽しい。そんな感じが、きのう出た。
みんな自然体な人が集まっていて、いつのまにか身のこなしが美しくなっている。

仕事や家庭から離れた解放の時間をもち、いま現在その人が持っている魅力に気付いてもらい、創造的になってもらうこと。それがコンテンポラリーダンスすなわち今この瞬間を大事にするダンスの信条。認め合い、受け止めあい、の精神で全身全霊を解放すること。思い切り、のびのび動こうぜ!ということかしら。

踊りは、ひとりひとりが自分に風を通す時間。
ヴァイブレーションを共有しながら、互いに心とカラダを磨き合うのがダンス。
人はひとりで生きていけない。世界はみんなで知恵を出し合い生み出してゆくしかない。言葉だけでは足りない何かが必要。そんなことが、どんどんリアルになってゆくこの時代、フランクに、等身大に、本音を踊ってゆくダンスを共にしたいなと思っています。

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クラスショーイング&WS=11/7
ソロ新作公演=12/10