毎日うごきのある事ばかりしている反面、じっと動かぬものに見とれる時間が愛しい。
花も、絵も、書も、好き。
そんななかでも、器というものはとりわけ生活と近いからかしら、なんだか無性に気をそそる。

ルーシー・リーの展覧会(国立新美術館)は、すてきな器たちのあいだを散歩する静かな歓びの時間だった。
生活の夢を思いながら過ごした。
それは同時に、ひとつの見事な品に秘められた心とからだの軌跡をたどる時間でもあった。

いくつもの苦労を克服しながら真の個性に到達した一人の陶芸家の生き様が感じられる展覧会だ。

作家が暮らしをつなぐためにこしらえたという洋服用ボタンの数々もある。宝石なんかより遥かに魅惑的。
どんな小さな仕事にも心こめ夢を託す姿勢がにじみ出て愛しい。
ひとがその手を通し心を込めて生み出すものだけが放つ、暖かい静かさ。欲しくなる、手に触れたくなる。

戦後の作品群には眼をみはる思いがした。
バーナード・リーチの批評に心くじけ経済的にも苦しむなか、自分の作品を100パーセント支持してくれる一人の愛弟子コパーと出会い、再生してゆく過程で生み出された作品群だ。
創作活動への批評はデリケートだ。たとえ正論だったとしても、頑張って受け止めようとしても、傷つけられるほうがはるかに多い言葉に出会ってしまうことがある。
作家のやわらかいところに突き刺さった刺を取り除き、傷を癒して道を開いてくれる人の存在は、作家に本来のイノセンスや感性や活力を与える。
誰かに信頼されている、という事実を知ることは、確かな自信となって作品を高める。
自信は自由につながる。
その喜びを、ルーシーの後期作品群(コパーが制作を助けた)は静かにたたえているように感じた。
エロチックともいえる線文茶碗。
手触りをそそる質感。
釉薬の生がけが生み出す無上の色あい。
危ういほどに繊細なフォルム、
しかし確かな重心が空間にストンと点を打つ。
それはきっと人の手のひらにもしっとり落ち着くんだろう。

ガラスケースのなかにずらりと並ぶ器たちが、安らぎのアウラを放つ。
暮らしの場所に光源となるような一点一点だ。

花器に香炉に茶器に食器。
魅了されながら顧みた。

愛すべき器ひとつあることで、どんなに暮らしが和らいでいることか。

立派な家に住みたいとはさほど思わなくても、愛すべき器をひとつ、やはり欲しい。そう思う。

美しい器が放つ香りは、日常の風景のみならずそれを扱う人の身体にも染み付いてゆく。
美しい器は人の品を育てるし、日常を美しくもする。

たとえばテーブルウェアとは、暮らしのエロスを一部担うものではないかなあ。
食が肉体への愛情だとすると、器は愛情を運ぶもの。
毎日ながめ、手や口に触れ、洗浄し、ある場所に納め、という付き合いを重ねながら、
きめ細やかでデリケートな情の交感を、身体とテーブルウェアは、はぐくんでゆく。

器は、生活するカラダの隣にあって、肉体それと同じくらいに誘惑的だ。
すてきな器を目にすると、その延長にあるはずの、肉体の手指や唇までをも妄想してしまう。
いや、肉体の営みの延長に、器がある、と、言い直すべきか。

もろもろキリがないけれど、この展覧会、静かに心を動かしてくれる。オススメです。