書家・武田双雲さんの本が素敵で、ながめていた。
絵を描くように字を書く、逸脱と調和のすさまじいバランス感覚。冒険と遊びと格調がひとつの文字にギュッとつまって、書の醍醐味に引き込まれる。

その本のページをめくりながら、ドキッとする写真に出会った。
良寛和尚の書だ。

良寛の字はすごいと聴きながら、はずかしながら初めて。

まろく、まっすぐであり、すこぶる威勢よく、繊細、しかも、ユーモアがある。本当に優しい字、というのはコレか。

じっと見つめるうちに落涙。
文字からこんな風に感動するのは久々のこと。しかも、本物じゃなくて本のうえの小さな写真わずか5センチ四方ほどの世界である。
字は心。伝わるものは伝わるんだなあ。

増上寺で篠田桃紅さんの書を観せていただいた時も、それから泉鏡花の肉筆原稿を観に旅行した時にも思ったが、やはり字には魂が丸ごと現われ出る。文字は心身の延長にあるから。

そういえば、僕には踊りと字が重なりあうように思える。

字を書くことは、かなり繊細なカラダの作業だ。どんな字でも読めれば意味は通じるだろう。しかし、字の面白さは、その意味を超えて書いている人のカラダの感覚や心の状態まで現れるところだ。
心こめなければ乱雑な字になる。身体に何かあれば勢いない字になる。
字を書くことは真っ白な紙を相手に筆を介したデュエット。字は一種のダンスとも言える。

僕自身も思い返せば、しっかりした字が書けている時は踊りも稽古も、うまく進んでいる。生活のリズム感も活き活きしている。忙しい日も暇な日も、ひとりの時間をしっかり持て、自分を育ててくれる人との交流も積極的につくっている。
しかし、字がブれている時はからだも心もブれている。芯がとれず、踊りにも迷いがあったり本音がカラダに出ない。
集中力が散漫でひとつの事に専念できていない時だ。
そんな時は、なにかしら生活のなかにもスッキリしない状態がある。
ひとりよがりの行動が多くなったり、さまざまな心配に囚われたり。
そんな時、字は雑。危険信号だ。

からだも心も移ろいゆくように字も刻一刻と変わってゆく。

文字を書くことは、移ろいゆく自分自身の状態をみつめることに通じている。

PCを頼るようになって書類の始末は随分と効率よくなったが、手文字を書く時間は大幅に減った。さみしいかも。

良寛和尚の心ひろがる書をみつめながら、やはり、「文字を書く習慣」を取り戻そうと思っている。
せめて日記やちょっとした手紙、それから、書きながら物思いする読書ノートや創作ノートなど。
それから、休みの日くらいは、ゆっくり墨でもすって臨書でもしようかしら。