踊りなどしていると、おのれのデリカシーが心配にのぼること多い。時間空間、運動、表現なんて大それたことのまえに、そもそも、ちゃんと立てているのか。他者に身を開けているのかしら。
自分の思いばかりに囚われていないかしら、いや、すぐ隣にある人の言葉ひとつだって、ちゃんと受けとめているかしら。
心身が他者と響いて踊りに、なんて夢あるが。
ところで。
「話す」ということば、語源は「放す」との説あり。このようなこと故・竹内敏晴さん(演出家)の著にあるが、いまになり改めて心が動く、身が引き締まる。
「おのれの身内に働くものを言葉にして、他者に手渡す。」
そのようなことならば、話す、とは実に愛と関わる行為。もちろん話すと喋るは違う。
身にしみる言葉、というのがあるが、あれは、やはり話す人の言葉を命の働きとして感じる体験なのだな。そう思い返した。
昨日の舞踏ワークショップ、今日のオイリュトミークラス。
ともに言葉をカラダに受けとめる稽古だったので、そうだクラスの人にも紹介しておかねばと、ふと読み返したのだった。
踊りは表現であると同時に受容の行為でもあるかと、僕は考えてきたが、道途上、苦楽も大きくなりつつある。おのれの身に他者を受けとめ響きこだまとなる。そのような澄み切りに思い馳せて佇まいを磨こうとする時、あらためて上記の説を思い出す。竹内さんの仕事、演劇・舞踊の境を超える、やはり重く大きく身に響く。
少々まとまりないこと書き連ねてしまったけど、どうかお流しいただければ幸いです。
自分の思いばかりに囚われていないかしら、いや、すぐ隣にある人の言葉ひとつだって、ちゃんと受けとめているかしら。
心身が他者と響いて踊りに、なんて夢あるが。
ところで。
「話す」ということば、語源は「放す」との説あり。このようなこと故・竹内敏晴さん(演出家)の著にあるが、いまになり改めて心が動く、身が引き締まる。
「おのれの身内に働くものを言葉にして、他者に手渡す。」
そのようなことならば、話す、とは実に愛と関わる行為。もちろん話すと喋るは違う。
身にしみる言葉、というのがあるが、あれは、やはり話す人の言葉を命の働きとして感じる体験なのだな。そう思い返した。
昨日の舞踏ワークショップ、今日のオイリュトミークラス。
ともに言葉をカラダに受けとめる稽古だったので、そうだクラスの人にも紹介しておかねばと、ふと読み返したのだった。
踊りは表現であると同時に受容の行為でもあるかと、僕は考えてきたが、道途上、苦楽も大きくなりつつある。おのれの身に他者を受けとめ響きこだまとなる。そのような澄み切りに思い馳せて佇まいを磨こうとする時、あらためて上記の説を思い出す。竹内さんの仕事、演劇・舞踊の境を超える、やはり重く大きく身に響く。
少々まとまりないこと書き連ねてしまったけど、どうかお流しいただければ幸いです。