目黒の現代刺繍展(庭園美術館:Stitch by Stitch~針と糸で描くわたし)と竹橋のゴーギャン展(国立近代美術館)をハシゴしながら僕は、淡々とした作業を繰り返し繰り返し積み重ねてゆく事の意味深さに思いを馳せた。
ヴァルレーに、芸術の内実と形式を論じた名文があるけど、僕は、内実を形式に昇華するプロセスにこそ瞠目することしばしば。リンゴを描くという選択よりも、リンゴがひとつの宇宙にさえ想像させてしまうような描かれ方、作業の堆積に粋を感じる。あぁ、ここまでして、やるんだ。というため息と共に、作者の喜怒哀楽がリンゴを宇宙に変えて僕の生活を揺さぶり始める。
そんなことを、改めて思うきっかけを差し出してくれたのは、目黒に展開された奥村綱夫さんの『夜警の刺繍』。サンドペーパーかと見紛うような点の密集。その一点ひとつひとつが針と糸の手作業、行為の堆積。警備員の仕事をする時間をずっと刺繍の手を動かしたのだという。いくつもの作品に作者の纏った警備服が添えられた。
これは一例。選ばれた作品いづれも驚きがある。それらが夢見のような重なりをなしつつ、刺繍という、あるいは、人の手作業というものの魅力に思い馳せさせてくれる。この展示の貴重さ。
苛立たしいほどの都心移動を経て、竹橋。ゴーギャンに向き合えば、先ほどの人ゴミさえ、哀しみに似た感情を誘う。『わたしは何処から来たのか、~』その、根源ゆさぶる題名をはるか越えて、巨大なタブローから恐ろしい沈黙が迫る。
繰り返し繰り返し繰り返し、ひとつの楽園を描くこと。それは、楽園を目の当たりにしながら、決定的な孤独を発見した日々の痕跡なのかもしれぬと思う。美しい風景は残酷だ。しかし、救いは何処からか訪れる。最後の作品。死の年に描かれた作品。そこで描かれたのは、南島の遠景だ。くっきりと山河があるなかで、人は輪郭を和らげ、踊りのごとし。高見に描かれたのは、作者自らが葬られる墓所の十字架、その一点の輝き。空の青。
美術史にこそ評価が分かれると聞くけど、僕はこの遺作に出会えて、良かった。ひとつのことをとことん繰り返した人の、フと見上げた空が、ここに描かれ、それが痛いように青い。私は何処から来たのか、私は何者か、私は何処へ行くのか。そのエニグマに向き合う勇気を、美術家は差し出してくれる。
ヴァルレーに、芸術の内実と形式を論じた名文があるけど、僕は、内実を形式に昇華するプロセスにこそ瞠目することしばしば。リンゴを描くという選択よりも、リンゴがひとつの宇宙にさえ想像させてしまうような描かれ方、作業の堆積に粋を感じる。あぁ、ここまでして、やるんだ。というため息と共に、作者の喜怒哀楽がリンゴを宇宙に変えて僕の生活を揺さぶり始める。
そんなことを、改めて思うきっかけを差し出してくれたのは、目黒に展開された奥村綱夫さんの『夜警の刺繍』。サンドペーパーかと見紛うような点の密集。その一点ひとつひとつが針と糸の手作業、行為の堆積。警備員の仕事をする時間をずっと刺繍の手を動かしたのだという。いくつもの作品に作者の纏った警備服が添えられた。
これは一例。選ばれた作品いづれも驚きがある。それらが夢見のような重なりをなしつつ、刺繍という、あるいは、人の手作業というものの魅力に思い馳せさせてくれる。この展示の貴重さ。
苛立たしいほどの都心移動を経て、竹橋。ゴーギャンに向き合えば、先ほどの人ゴミさえ、哀しみに似た感情を誘う。『わたしは何処から来たのか、~』その、根源ゆさぶる題名をはるか越えて、巨大なタブローから恐ろしい沈黙が迫る。
繰り返し繰り返し繰り返し、ひとつの楽園を描くこと。それは、楽園を目の当たりにしながら、決定的な孤独を発見した日々の痕跡なのかもしれぬと思う。美しい風景は残酷だ。しかし、救いは何処からか訪れる。最後の作品。死の年に描かれた作品。そこで描かれたのは、南島の遠景だ。くっきりと山河があるなかで、人は輪郭を和らげ、踊りのごとし。高見に描かれたのは、作者自らが葬られる墓所の十字架、その一点の輝き。空の青。
美術史にこそ評価が分かれると聞くけど、僕はこの遺作に出会えて、良かった。ひとつのことをとことん繰り返した人の、フと見上げた空が、ここに描かれ、それが痛いように青い。私は何処から来たのか、私は何者か、私は何処へ行くのか。そのエニグマに向き合う勇気を、美術家は差し出してくれる。