
11/1のオープンワークショップの第一部はクラスショーイングだ。ふだん通年で行っている稽古の一部を、見ていただく。そのなかで、今年は「ソロワーク」のコーナーを設けることにした。ひとりで踊る、ということにチャレンジしたい。一定の期間、徹底的に自分自身と向き合ってみたい。そんな声から、7名程の方を対象に個人稽古を組んだ。目標は「わたしの現在」を差し出すこと。。その人の魅力を見つめながら短い振付をさしあげ、稽古してもらう。人によっては自ら創作をしたいということで力を添えさせてもらった。「出来る」ことの寄せ集めではなく、「出来ない」ことさえ見せてみようじゃないか。そこから「次」を探そうじゃないか・・・。
プロセスが、良かった。たくさん話すわけではない。しかしカラダが本音をさらけ出してくる。1回1回の稽古の緊張感は、本当に良かった。ダンスとは活力。活力とは自信。自信をもって下さい、というのが、僕のワークの根っこだから、やはり個人の踊りは何とか育てたい。
ふだんのクラスはグループで行っている。感じ合うことこそ踊りの基本だから。つながりを体験したり、おおきな差異を感じて認め合ったりすることは素晴らしい体験だ。これを積みながら、さらにもう一歩入りこんでみると、私とは何者か、ということが出てくる。ダンスは自分自身を客体化する芸術でもあるからだろう。例えてみれば、自らの内面を、自らをペンとして、文字そのものとして、綴る。あるいは、自らを楽器として、奏でる。僕らは「人間」でありながら「私自身」として、ある。同様、ダンスもまた普遍性と並行して極私的な部分がある。普遍性をさぐるうちに個と出会い、個を突き詰めるうちに普遍を感得する。これが踊りのもう一つのおもしろさだ。
ひとりひとり、とても小さな存在だけれど、その内部には宇宙にも近しい広がりがあるのだと、言われてきた。古くはプラトンより、近代にはニーチェに顕著な、マクロコスモスとミクロコスモスのたわむれ。仏教では、金剛界と胎蔵界との相似を教えとする。あっ・・・、話が大きくなってしまいそうだ。身の丈に戻そう。たったひとつの掌、たった一歩の足の踏みざま、そんなことにさえ、喜び悲しみの経験・軌跡がにじむものだ。良し悪しではなく、ひとりの人間の立ち姿・姿勢には、見るべきものが必ず宿っているはずだ。そこに賭ける。これが「ソロダンス」だと思う。私という一人間の、からだの表情が、通じるか、響くか・・・。まずは勇気がいる。そして信頼が杖だ。見つめてくれる人すべてに対する信頼を持てるかどうか。これが、ソロの精神的基盤となる。だから、ひとりで踊るということは、すなわち、みんなと踊るということに、なる。
何かを表現する上で重要なことは、小さくとも結果を認めること。まずは一振り、まずは1分から、少しずつ結果を出してゆこうよ。と、稽古をした。同じ時を生きるひとりの人間が、今どんなことに向き合おうとしているのか。そのプロセスを見てもらいたい。ダンスの作品として以上に、一人の人間が一人のダンサーへと歩む姿に、眼の杖をいただければ幸せです。
PS:
私は考える。
私は語る。
私は語った。
私は世界の中に私をさがす。
私は私のなかに私を感じる。
私は知る、私が、私自身への、すなわち世界への道の途上にあることを。」
ルドルフ・シュタイナーが認識論のために書き留めたテクストの一部だが、この一文は、日々交感することのステップを明快に示していると思う。生は表現の束である。コミュニケーションが、鎖のように連なり、一瞬一瞬の結果を出し、未来につながってゆく。
良いことが突然起こるわけではない。悪いことも突然起こるわけではない。一見とるに足らぬ感受や決断や行為が、大きな結果を紡ぎだしてゆく。地球の裏側での一羽の蝶の羽ばたきが、大きな気流の変化にさえ及んでいるということを、ある書物で知った。
オープンワークショップ+クラスショーイング200811/1年1回のオイリュトミー&ダンス「公開稽古会」です。見て、一緒に動いて、楽しむ。終了しました。またやります。