もうすぐ11月。1日には先日からお伝えしているワークショップがあったり、そのあと中旬には新作公演があったり、とても大事にしている活動をひかえながら、ダンスの面白さを再発掘してゆくような日々です。
ダンスの愉しさ、その筆頭は、やはりダンスというものが人間を変化させるということ。
クラスワークで、ステージで、いろんな方と関わってきましたが、ほとんどの方が踊れば踊るほどに、大きく変わってゆかれるのです。みんな姿勢が良くなります。身のこなしも優しくなります。でも、ただ上手になるというのではない、ただ姿勢が良くなるだけではない。「気配が明るくなる」というか、オープンな感じになってゆくのです。そして「よく笑いよく泣く」ようになってゆく感じがあります。苦しいときは苦しいって「ちゃんと言うように」なります。僕は、人間って炎みたいなものではないかと思っているのですが、踊ることによって、その輝度がアップするのではないか。ひとりひとりの内部にまどろんでいる火種に、音楽やら身振りやらが風を呼び込んで、燃焼の度合いを強くするんじゃないかと思います。だから、姿勢が良いといっても「気をつけ」の姿勢ではなくて、しんなりとまっすぐな、ふと振り返るのが様になるような姿勢。色気・品といったものにつながってゆくような「まっすぐ」です。踊る人の内部では、天地がいつも交差していますから、流動する垂線が背筋を通りゆくのでしょう。
僕のワーク(稽古)は、どちらかというとよく動く方です。ヨガを含む各種伝統訓練より学ぶ基礎トレーニング、シュタイナーの「オイリュトミー」メソッドを基礎とする型稽古、日本現代ダンスの集成である「舞踏」に感受を得た創作/即興の稽古。いづれも「止まらぬこと」「居着かぬこと」が大事になっていますが、まず動いてもらいます。
ダンスは、考えたことを実践する類いの行為ではなくて、実践することから考えをいざなう類いの行為です。よく動き、発汗し、呼吸する。時の流れ、感情の流れ、というものが滞らぬよう、ともかく「入る」「ノル」。メチャクチャを怖れると動けません。メチャクチャをこそ楽しめば、動きは愉しい。愉しければ、もっと愉しくしたいものですから、より「通り」の良い動きを無意識に探り始めます。そして、動きは次第に洗練されてゆきます。馬鹿になって型にハマリ、型をはずしてカオスを呼び込む。その振り子のような繰り返しが、いつしか敏感で創造的なカラダをつくってゆくんだと思います。
練習生の方から、櫻井センセイはけっこう体育会系ですからね。と笑われた事があるんですが、「がんばろう~、大丈夫だよお、集中うっ、息してますかあっ~・・・」っていうあたりが稽古中の口癖ですね。これは、あえて理屈を申しますと、カラダをゆるませてゆきたいからなのです。力を込める、力を抜く、要らぬ情報を追い出して思いを一つに絞る、体にちゃんと風を通す。そんなことをただただ繰り返すと、ジブンなんていうものがスッと空っぽになり、色彩や音がたわむれる空っぽの場所「カラダ」というものが見えてくる。あとひとつは「評価は自分でするな」。これは、あえて身をゆだねるということにチャレンジしていただきたいから。花は自分で評価しながら咲いていません。それを美しいと思うか、それとも気づきもしないか。ゆだねきって、ただ咲くのみ・・・。
「ゆるみ」と「ゆだね」。これはダンスを楽しむコツで、生む力にもつながってゆく。
ゆるやかに己を保ち、やすらかに身を他者にゆだねる。安心して堂々と生きている姿です。
これを徹底して行っているのは、幼い子どもたちですよね。憧れます。そして考えます。僕ら大人は、彼ら子どもの憧れとなっているだろうか、と。
ダンスは生命力の再生にかかわる芸術ですが、まずは自己の生命力を再生してゆきたいと思って踊ってきました。
特別な身体が特別な器用さで特別な動きを踊ってみせる。そんなのは古くて、いまは、「ちゃんと生きている」ということこそ美しいという時代に差しかかっています。「生きにくい」時代だからこそ、「活きる」工夫が生まれそうです。神様からでも、ご両親からでも、ともかく「与えられた」カラダと生命を、活かす。そのヒントをこそ、踊りに求めたいと思っています。
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【お申し込み受付中】
櫻井郁也・新作ソロ公演「LAND'S END」:11/14~15開催
ダンス&オイリュトミークラス:毎週3~4講座あり
ダンスの愉しさ、その筆頭は、やはりダンスというものが人間を変化させるということ。
クラスワークで、ステージで、いろんな方と関わってきましたが、ほとんどの方が踊れば踊るほどに、大きく変わってゆかれるのです。みんな姿勢が良くなります。身のこなしも優しくなります。でも、ただ上手になるというのではない、ただ姿勢が良くなるだけではない。「気配が明るくなる」というか、オープンな感じになってゆくのです。そして「よく笑いよく泣く」ようになってゆく感じがあります。苦しいときは苦しいって「ちゃんと言うように」なります。僕は、人間って炎みたいなものではないかと思っているのですが、踊ることによって、その輝度がアップするのではないか。ひとりひとりの内部にまどろんでいる火種に、音楽やら身振りやらが風を呼び込んで、燃焼の度合いを強くするんじゃないかと思います。だから、姿勢が良いといっても「気をつけ」の姿勢ではなくて、しんなりとまっすぐな、ふと振り返るのが様になるような姿勢。色気・品といったものにつながってゆくような「まっすぐ」です。踊る人の内部では、天地がいつも交差していますから、流動する垂線が背筋を通りゆくのでしょう。
僕のワーク(稽古)は、どちらかというとよく動く方です。ヨガを含む各種伝統訓練より学ぶ基礎トレーニング、シュタイナーの「オイリュトミー」メソッドを基礎とする型稽古、日本現代ダンスの集成である「舞踏」に感受を得た創作/即興の稽古。いづれも「止まらぬこと」「居着かぬこと」が大事になっていますが、まず動いてもらいます。
ダンスは、考えたことを実践する類いの行為ではなくて、実践することから考えをいざなう類いの行為です。よく動き、発汗し、呼吸する。時の流れ、感情の流れ、というものが滞らぬよう、ともかく「入る」「ノル」。メチャクチャを怖れると動けません。メチャクチャをこそ楽しめば、動きは愉しい。愉しければ、もっと愉しくしたいものですから、より「通り」の良い動きを無意識に探り始めます。そして、動きは次第に洗練されてゆきます。馬鹿になって型にハマリ、型をはずしてカオスを呼び込む。その振り子のような繰り返しが、いつしか敏感で創造的なカラダをつくってゆくんだと思います。
練習生の方から、櫻井センセイはけっこう体育会系ですからね。と笑われた事があるんですが、「がんばろう~、大丈夫だよお、集中うっ、息してますかあっ~・・・」っていうあたりが稽古中の口癖ですね。これは、あえて理屈を申しますと、カラダをゆるませてゆきたいからなのです。力を込める、力を抜く、要らぬ情報を追い出して思いを一つに絞る、体にちゃんと風を通す。そんなことをただただ繰り返すと、ジブンなんていうものがスッと空っぽになり、色彩や音がたわむれる空っぽの場所「カラダ」というものが見えてくる。あとひとつは「評価は自分でするな」。これは、あえて身をゆだねるということにチャレンジしていただきたいから。花は自分で評価しながら咲いていません。それを美しいと思うか、それとも気づきもしないか。ゆだねきって、ただ咲くのみ・・・。
「ゆるみ」と「ゆだね」。これはダンスを楽しむコツで、生む力にもつながってゆく。
ゆるやかに己を保ち、やすらかに身を他者にゆだねる。安心して堂々と生きている姿です。
これを徹底して行っているのは、幼い子どもたちですよね。憧れます。そして考えます。僕ら大人は、彼ら子どもの憧れとなっているだろうか、と。
ダンスは生命力の再生にかかわる芸術ですが、まずは自己の生命力を再生してゆきたいと思って踊ってきました。
特別な身体が特別な器用さで特別な動きを踊ってみせる。そんなのは古くて、いまは、「ちゃんと生きている」ということこそ美しいという時代に差しかかっています。「生きにくい」時代だからこそ、「活きる」工夫が生まれそうです。神様からでも、ご両親からでも、ともかく「与えられた」カラダと生命を、活かす。そのヒントをこそ、踊りに求めたいと思っています。
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【お申し込み受付中】
櫻井郁也・新作ソロ公演「LAND'S END」:11/14~15開催
ダンス&オイリュトミークラス:毎週3~4講座あり