「死んだまま、生きている。生きたまま、刈り取られている。」


一本の樹木をめぐる印象ですが、これが始まりでした。

招待されたフェスティバルが行われた山梨・白州は水の清らかさが有名なところ。その村の入口に、大きな松の樹があったのです。樹齢何百年、いえ、千年とかかもしれません。その樹が突然、枯れたという。切り倒されたという。去年、その樹の前で好きなダンサーTさんが踊ったばかりなのに、びっくりで・・・。「Tさん、あの松は元気ですか」「それがね、どうしてだか突然枯れちゃって・・・」その無惨な切り株を見つめながら、パートナーである美術家と何度も話すうち、樹はまだ生きているんじゃないかということになりました。

「樹にはね、根っこがあるの。枯れたって、簡単に死なないよ・・・。」

地中の奥深くで、いまだ根は生きていて、どこか全く別の場所から、なんらかの生命体になってふらりと現れ出るかもしれない、などと話し合ううち、コトバはダンスに。その痛ましいような切り株が、踊り場の中心に決まりました。

踊ることで、失われたものと始まりゆくものをつなぐことは出来ないだろうか。というような感情とも重なって、この生命痕跡に人が集う瞬間をと考えてみました。元来、イノチの危うさを孕んで祈っているのがダンスだと思います。激しく踊るほどに、命に追いすがるようなフォルムが、湧き上がってくるのではないかとも思います。

大きな切り株を見つめながら、土をそっと踏みました。踏んでも叩いても、土は怒りませんが、小さな草たちが硬い針のように痛い。なにかの虫が、しつこく噛み付いて痛い。切り株に横たわると、その伐採の跡はまだ生々しく、ノコギリのように背中を刺しました。

滑稽のような哀しいような痛覚が、踊りとなって、一本の巨大樹の残像にからまってゆく。美術家は、その身体に藍の布を、切り株と大地に赤い砂を、あしらいました。そして、小さな鐘を鳴らしながら、水滴を空や地や踊り手に蒔いてゆきました。種を蒔くような感じでした。

僕にとって、ダンスは美醜と滑稽と悲しみと祈りがカオスを成す、鏡の向こう側の暮らしです。実際の暮らしのパロディであり賛美歌でもあるのですが・・・。

上演後、まだ生きている小さな樹木のもとで、観客や評論の方々が、対話の会を開いてくださいました。

話の輪の中心になってくださったのは、市田良彦さん。神戸大学で教鞭をとりながら、現代の知を見つめ進めていられる哲学者で、僕はランシエールについての著書を愉しく読ませていただいたばかりです。「櫻井さんの踊りはねえ、死にながら、生きているんだね。それで、生きたまま、死んでいて、それでも生きてゆこうとしているんだよなあ。あなた、あの切り株は、断頭台みたいなものだったんじゃないんですか。自らそこに来てね、それでも確かに生きていようとするわけだ・・・。」

と、お茶を飲みながら、おだやかに発せられた市田さんの第一声に、びっくりしました。踊りの思いが、そのままのコトバで、いま語られ始めた。僕のダンスの印象は、さらに驚いたことに土方巽さんの舞踏と重ね合わされ、生き死にの矛盾や悲喜劇の話へとふくらみ、中世フランスの残酷劇グラン・ギニョルに重なるものがある、とイメージを転換してゆかれました。なんでも、昔の人は、死んだ人のカラダを見つめてゆくことさえダンスに含めていたというのです。刺激的。幻想的。市田教授の話は、批評というよりは驚くべきイメージに満ちた幻想小説みたいに思いました。

なぜか、鈴木大拙を読みたくなりました。「生命はみな天をさしている。が、根はどうしても大地におろさねばならぬ。大地に係わりのない生命は、本当の意味で生きていない。」この有名な一喝が、ふと身に迫るように思えました。さて、踊りは、暮らしは、いかなる一歩を進んでゆくのでしょうか。


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