きょうはオイリュトミークラス。しばらくご紹介していなかったけど・・・。

ドイツ語圏を故郷とする踊りで、原語ではEURYTHMIE(英語ではEURYTHMY)。優美な律動とでも訳そうか。音楽や言葉のバックボーンである「心の波」を肉体に映してゆく踊りだ。ヨーロッパやアメリカあたりでは、いろんな所に応用されていて、ダンスセラピーならぬ「治療オイリュトミー」というのもある。情操や音感を育てるにも良いということで、
「幼児オイリュトミー」や「教育オイリュトミー」という分野も開発が長い。昨今、日本でも自由教育で有名となった「シュタイナー学校」でのメインカリキュラムとしてご存知の方も多い。
僕のクラスは、いちばんオーソドックスな「芸術オイリュトミー」、大人用。いわば原典・基礎である。ダンスの歴史を変えた舞台芸術のひとつであり、踊ることによって精神や肉体を高めたいと願う人のための踊りで、ヨゼフ・ボイスやミヒャエル・エンデをはじめとする現代の知ともつながる。精神と肉体の織りなす、ふくよかで波のような動きから、西洋の「能」と評されることも多い。大人向きの優雅な香りがある踊りだから、人生を踏んでこられた社会人やシニアの方など、とりわけ向いているかもしれないと思う。内面性が深く、僕が行っているものの中では、「舞踏/BUTOH DANCE」に大きく通じる。僕はアーティストとして自由にダンスを創作し発表し続けているのだけれど、日々の稽古はいつもオイリュトミーを欠かせない。寝食のように、これを続けていて飽きない。

さて、クラスは毎週水曜の夜。基本から発展まで、極めて明快に定められたメソード(方法)をもっているので、初心者は見て学び、真似つつ動き、という、昔ながらの「稽古事」の仕方を行っている。長く練習している方についてゆけば、いつしか慣れて、カラダがおぼえてゆく。のんびりと優雅に取り組みたい。ほかのクラス同様、多くとも10名以内で行っている。雑に接したくない。

クラス前半は基本の動きを、後半には作品を少しずつ振付けてゆく。いま出来上がりつつある作品は2つ。秋は、これに踊りやすいシンプルなものをいくつか新作して、11月1日(土)にダンスクラスや今年始めたソロ指導のメンバーと一緒に小さなショーイングをする。初心者用のワークショップもセットにして行うので、観たり踊ったりして楽しんでいただきたい。(近日詳細告知)

オイリュトミーの動きは、音楽や言語の構造に準じた「型」をヒントに、流動する。「ア~」という時どんな気分になるんだろう、それを全身で表現するとどんな感じか。「イ~」って言う時の気分はどう違うのだろう。「ドミソ」の音はどんなふうに心に響く?「#」をつけたら気持ちはどう変化するの?エトセトラ・・・。そんなことを全身で動きながら感じ直してゆく。さらに湧き上がる感情を注ぎ込む。まるで、幼い子どもが言葉や音楽を獲得してゆくような作業だとの感想をもらったことがある。コミュニケーションの根っこの部分を歩き直している感じだ。そんな体験を繰り返しながら、「力みのない姿勢」と「しなやかな身のこなし」を身につけてゆく。言葉や音楽のもつ波に、素直に乗ってゆく準備だ。素早くダイナミックな動きが多いが、すべて流動なので、慣れれば爽快に尽きる。リラックスすれば人は何歳になっても水のように流れることができる。

いま出来上がりつつある作品の話題も少し・・・。

音楽では、モーツァルトのト長調ピアノソナタ。右手パートを踊る人と左手パートを踊る人。メロディーの踊りとリズムの踊り。ふたつの踊りが空気のようにからみ合いながら、ハーモニーを奏でる。練習は、いつも生演奏で。ピアニストと踊り手も息を合わせる、これ自体もオイリュトミーの重要なテーマだ。もうひとつの作品は、川崎洋さんの詩を踊る。僕が朗読し受講者が呼吸を合わせて踊る、声とのセッション。コトバも音楽のように響きのアートとして踊るのだ。いつも僕らはおしゃべりするけど、それは単なる意思疎通ではなくて(いや、意思疎通こそが、とも言えるのだが)非常に精度の高いクリエーションだというのが、オイリュトミーの視点だ。まず、息や熱や気持ちの波が、通じてゆくのだから。母音や子音の響き、そして、間の静けさや緊迫感を全身で表現する。言葉は空気の造形だ。踊り手も空気のように身を軽くして空間を疾走しながら踊る。詩に含まれる「ひびき」をカラダに映す、詩をカラダに響かせる。

軽やかになりたいという願いを、このクラスでは共有しているのかもしれない。稽古は汗いっぱいだが、終わったあとの顔は、みないつも涼しげだ。
(一部、過去の記事から書き直しました。オイリュトミー解説、近いうち、もっと詳しく書きます。)

クラス参加方法など