”持って生まれた いのちの水”(神沢利子)

このような言葉をスッと差し出されて、姿勢たださずにいられる大人がいるでしょうか。

コトバとイメージによる展覧会です。絵本、児童文学、回想・・・。作家・神沢利子さんには、かんたんには読みつくせぬ量の本がありますが、この展覧会ではその全体を鳥瞰しながら楽しく、神沢さんの世界にふれることができました。

”おれは 鹿の肉を くう
それは おれの 血 おれの肉となる
だから おれは 鹿だ”

・・・・・・・『鹿よ おれの兄弟よ』

このような言葉たち、その生き生きしたリズムが紡がれた背景には、いかなる気持ちの歴史が積層しているのでしょうか。

ごまかそうとしても、ごまかしおおせぬ本当が立ちはだかり、逃げようとしても逃げ仰せぬ生や愛の現実が、いかにささやかな生活にもつきまとい、それを背負わずにはいられぬ、僕らの日々が、ひとつひとつのコトバの内部で息吹いている。
いつか生まれ、いつか死ぬからには、向かい合わざるを得ない喜び哀しみ、を、神沢さんのコトバたちは呼吸させてくれます。
きょうはこんなことがあった、あんなひとと出会った。そのひとつひとつが、いのちの水の流れをつないでゆくのだという感慨。

生きようとする 以上に 生きてイル 
ことを、
生きている 以上に 生かサレテ いる 
ことを、

このひとの作品群は、おもいださせてくれます。
コトバたちは、き然として、それでいて僕らを包み込むように、そこにあってくれます。

言葉は人である、言葉は息吹である、そのように僕は思っています。
だから、言葉との出会いは人との出会いであり、身体の再出発につながると・・・。

”だれが悪いか、知りたくば泣くな。泣くひまに目をあけて見るのだ。自分がこの目で見たことを、ひとつひとつおぼえておくのだ”・・・・・・・・・・『銀のほのおの国』

まさに ”いのちの水” きらめくさなか の 子どもたち にこそ向けられたその言葉の森は、母であり、故郷であり、なおかつ僕なんぞあこがれてしまう「彼女」であり、僕ら大人にもひらかれたものでは、と、あらためて思うのです。

胸をつくコトバの断章、多くの画家による絵本の原画、人となりの紹介、子どもの視線によるオブジェ。久々に心の芯が暖まった展覧会でした。1月13日まで、三鷹市美術ギャラリーにて。ぜひ・・・!
(太字=引用)
神沢利子展~いのちの水があふれだす~