まもなく、以前このブログで書いた、ダンスの傑作が上演されます。
7/28~29埼玉芸術劇場にて、「身体(ケルパー)」という作品。
作者はサシャ・ヴァルツ。
ベルリンのホロコースト祈念館での体験がダンスになったのだそうです。
僕自身の処女作「mists(霧)」も、アウシュビッツ跡でのトラウマ的体験がダンスになったものでした。
そのこともあり、彼女の作品に関心をもったのですが、とても感動し共感しました。
「アウシュヴィッツ以後、詩は不可能だ」という、テオドル・アドルノの有名な言葉があります。
たしかに、僕らは、とても大きな崩壊感覚をかかえたまま、時をすごしているかもしれません。
「愛」に対する喪失や絶望を、どこかにかかえている気さえします。
それでも生きているのは事実ですし、喜びもあります。
人生の中で、実存の焦燥と戦いながらも、あえて詩を感じ、歌い、踊る。
そのようなことが、僕らの魂には必要だと思います。
「身体(ケルパー)」は、その辺りをごまかさずに表現しているダンス作品だと思います。
サシャ・ヴァルツは同世代の振付家のなかで最も尊敬できる人です。
果敢に、深刻に、きまじめに、作品をつくる人だと思います。
困難なものごとを共有し、深く考え込む時間を、あえてプロデュースする態度が、この人には、ちゃんとあります。
難解さも、生じますが、私たちの眼力や集中力を信頼しているからこそ。
媚びない、気高さを失わない、安易な流行を考慮に入れない。
僕は、このような態度が、作家の自然だと思います。
そして、このような人を評価し、サポートするヨーロッパの人々が、この大きな作品を創ったのだと思います。
身体をめぐって、存在をめぐって、いたたましいほどにダンサーたちが踊る作品です。
重厚で、荘厳。しかし、美しい叙情が漂います。
ぜひ・・・。
関連記事
7/28~29埼玉芸術劇場にて、「身体(ケルパー)」という作品。
作者はサシャ・ヴァルツ。
ベルリンのホロコースト祈念館での体験がダンスになったのだそうです。
僕自身の処女作「mists(霧)」も、アウシュビッツ跡でのトラウマ的体験がダンスになったものでした。
そのこともあり、彼女の作品に関心をもったのですが、とても感動し共感しました。
「アウシュヴィッツ以後、詩は不可能だ」という、テオドル・アドルノの有名な言葉があります。
たしかに、僕らは、とても大きな崩壊感覚をかかえたまま、時をすごしているかもしれません。
「愛」に対する喪失や絶望を、どこかにかかえている気さえします。
それでも生きているのは事実ですし、喜びもあります。
人生の中で、実存の焦燥と戦いながらも、あえて詩を感じ、歌い、踊る。
そのようなことが、僕らの魂には必要だと思います。
「身体(ケルパー)」は、その辺りをごまかさずに表現しているダンス作品だと思います。
サシャ・ヴァルツは同世代の振付家のなかで最も尊敬できる人です。
果敢に、深刻に、きまじめに、作品をつくる人だと思います。
困難なものごとを共有し、深く考え込む時間を、あえてプロデュースする態度が、この人には、ちゃんとあります。
難解さも、生じますが、私たちの眼力や集中力を信頼しているからこそ。
媚びない、気高さを失わない、安易な流行を考慮に入れない。
僕は、このような態度が、作家の自然だと思います。
そして、このような人を評価し、サポートするヨーロッパの人々が、この大きな作品を創ったのだと思います。
身体をめぐって、存在をめぐって、いたたましいほどにダンサーたちが踊る作品です。
重厚で、荘厳。しかし、美しい叙情が漂います。
ぜひ・・・。
関連記事